温泉逍遥

思いつきで巡った各地の温泉(主に日帰り温泉)を写真と共に紹介します。取り上げるのは原則的に源泉掛け流しの温泉です。

更地になっていた知本温泉の開天宮

2017年08月01日 | 台湾
大規模でメジャーな施設から、地元の人ですら見向きもしないような野良湯まで、拙ブログでは2009年以来台湾各地の温泉を数多く取り上げてきましたが、170以上に及ぶ台湾関係の記事の中でも、意外と反響が大きかったのが、知本温泉の「開天宮」という廟です。決してガイドブックなどに掲載されることのない地味で目立たないその廟は、日本語世代のおじいさんが一人で護っていらっしゃり、併設する民宿も一緒に営んでいました。境内には雑然としている個室風呂があり、あまりの汚らしさに利用を躊躇ってしまうほどなのですが、そこに注がれる温泉はニュルニュルの大変滑らかな極上湯。数ある知本温泉の浴場でも、このお風呂を超える滑らかなお湯は、いまだに出会えていません。
そんなマニアックで独特な佇まいが拙ブログの読者の皆様のハートを捉えたのか、記事を公開してから数々の反響を頂戴しました。しかしながら、昨年(2016年)、その記事のコメント欄に、実際に現地へ行ってみたら廃墟と化していた、という衝撃的な情報が寄せられたのです。情報をお寄せくださった方にはこの場を借りて改めて御礼申し上げますが、それにしてもあの廟がわずか数年のうちに消えてしまうとは信じられず、どうしても自分の目でそのことを確認したかったので、2017年3月に知本へ足を運ぶことにしました。

今回の記事では、以前の姿と現在の様子を容易に比較できるよう、2012年3月の画像を織り交ぜて当時を振り返りながら、話を進めてまいります。


 
まずは2012年3月の旅を振り返ります。知本の内温泉方面へ向かう路線バスに乗っている時、たまたま目に入った黄色い看板と、そこに記されていた「泡澡」という文字が、私が「開天宮」と出会うきっかけでした。知本温泉を東西に貫くメインストリートには、廟の存在を知らせるその黄色い看板が立っていました。看板の背後に伸びる坂道を登ると、すぐに廟があったのでした。


 
さて上画像は、2017年3月、つまり5ヶ月前の同じ場所です。看板こそ立っていますが、黄色ではなく青色で、しかも以前とは全く異なる別の民宿名が記されていました。少なくとも廟のような宗教施設の名前は見られません。


 
2012年3月に戻ります。坂を登って鋭角に曲がると、そこには「開天宮」という廟があり、私が訪れたときにはお爺さんがひとりでいらっしゃって、足裏に薬を塗りながら無愛想に入浴を受け付けてくれたのですが、その後、私が日本人だとわかると、お爺さんは俄然目を輝かせ、嬉々として流暢な日本語で会話をしてくださいました。日本語世代のお爺さんは日本語を喋りたくて仕方がなかったのですね。一人のお爺さんの口から出てくる言葉のひとつひとつに、知本や台湾の歴史が強く反映されており、私にとっても非常に有り難く忘れがたい出会いになりました。


 
2017年3月です。坂道を登って鋭角に曲がってみると、いかにも中華風の廟があったところは、廃墟どころか、完全な更地になっていました。廟をひとりで護っていたお爺さんと私が、お茶を飲みながら長い時間にわたって日本語でお喋りした廟は、すっかり姿を消しており、当時を偲ばせるものは残っていません。坂道の途中には民宿があり、その建物もおじいさんが経営していましたが、建物自体は残っており、別のオーナーによって営まれているようでした。坂の下に立っていた青い看板はその新経営者によるものなのでしょう。


 

2012年3月。まだ廟があったころ、社殿の中央に神様(おそらく道教の神様)が祀られており、その左側にはバックヤードのような空間が広がっていました。私が訪れた時にはいろんな備品が雑然と置かれていた(いや、散らかっていた)ほか、床にはなぜかグァバが転がっており、その傍らでは干からびたトカゲがひっくり返っていました。そして、訪れる者を不安にさせるこの空間を通った先のコンクリ擁壁の真下に、3つの個室風呂が並んでいました。個室風呂は3つ全てが使えた訳ではなく、最も手前側のお風呂には洗濯物がビショビショのまま放りっぱなし、奥の浴室も見るからに汚らしく、実質的に利用可能だったのは中央の一室のみでした。
でもそのお風呂に注がれるお湯は、トロットロでニュルニュルという大変滑らかな浴感を有しており、端的に表現すれば台湾屈指のうなぎ湯でありました。しかもお湯からはイオウ感もしっかりと伝わり、温泉としては文句なしに素晴らしいものでした。冒頭でも申し上げましたが、台湾でここを超える滑らかなお湯にはなかなか出会えていません(先日取り上げた「金峰温泉」がここと比肩できるかと思います)。勇気を振り絞っておじいさんを訪ね、このお風呂に入ることができて本当に良かった。


 
2017年3月。
宗教施設の跡も、お風呂の跡も、そこには全く残っていませんでした。左(or上)画像に写っているコンクリ擁壁の下にお風呂があったはずです。
真っ平らな敷地の片隅には、廃材のタイルが積まれていました。社殿に敷かれていたものか、はたまた浴室のタイルだったのか・・・。過去の画像で調べる限り、社殿に用いられていたタイルは暖色系のみですが、浴室には白や水色のタイルが使われていたようです。廃材として積まれていたタイルはみな白か水色系でしたから、この廃材はここに浴室があったことを示す唯一の名残と言えるのかもしれません。

本当に無くなっちゃったのかと悲しい気持ちで打ちひしがれ、その場で肩を落としてショボンとしていると、上の方でシューシューと音が聞こえてくるではありませんか。


 
廟の跡地から更に坂を更に登ると、配管からお湯が勢い良く霧状に噴き出ており、地面に滴る大量のお湯で辺りはドロドロの泥濘と化していました。もしかしたら、ここから廟のお風呂へ給湯管が分岐していたのかもしれません。ちゃんと封栓しないでお湯を出しっぱなしにさせちゃうところは、いかにも台湾という感じがします。どんなお湯なのか、あのお風呂で堪能できたニュルニュル感を再び体感できるのか、とても興味があったのですが、噴射されるお湯のミストが非常に熱く、また泥濘がひどくて旅の靴が泥だらけになっちゃいそうだったので、お湯に触れることは断念しました。
さらに上へ登ると源泉井と貯湯タンクが建っており、源泉井の塔の上から白く濃い湯気が立ち上っていました。おそらく廟跡の手前で今も営業を続ける民宿など、界隈の温泉施設へお湯を分配しているのでしょう。ということは、あの廟のお風呂は源泉から僅か10メートルちょっとしか離れていなかったんですね。道理でお湯が良かったわけだ。

森羅万象どんなものにも始まりと終わりがあります。温泉も例外ではなく、人知れず湧く秘湯も、いつも賑やかな名湯も、いずれは終焉の秋を迎えるのでしょう。天災、経営難、後継者不足・・・いろんな要因によって、いくつもの温泉が過去の記憶へと化していきました。これまで私が巡ってきた温泉を振り返っても、過去帳入りしてしまった施設が意外に多いことに気づかされます。ですから、自分が入ったことのある温泉が閉鎖されたという報に接するたび、遣る方無い喪失感を抱くと共に、その事実を素直に受け入れなければならないという諦観も繰り返してきました。
しかしながら、自分の目でここの廟が完全に消えてしまったことを確認したときには、単なる諦観では済まされない空虚感や悲壮感に襲われ、その場で呆然と立ち尽くしてしまいました。お風呂に入れないのは仕方がない。温泉施設はいずれ無くなるものだ。でも、日本のことを愛してくれていたあのお爺さんはどうしてしまったのでしょうか。そもそも何故廟は完全解体されて更地になってしまったのでしょうか。いや、知らない方が良いかもしれない。敢えてその理由を探ることなく、私は廟の跡地を立ち去りました。

コメント (2)
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