今回の私の緑島観光で最も重きを置いたのは、先日取り上げた「朝日温泉」、そして政治犯収容所跡の見学です。私が旅に出る時には、どうしても温泉への訪問に多くの時間を割いてしまうのですが、それに次いで旅の大きなテーマになるのが、近現代史の負や陰の側面を見学することです。台湾施政下に関しては、いままで金門島の戦跡や雲林の眷村などを拙ブログで取り上げてまいりましたが、緑島の政治犯収容所跡も以前から一度は自分の目で見ておきたかった史跡でしたので、今回の記事で紹介させていただきます。
第二次大戦後、台湾は日本の統治下から離れますが、その代わり、中国大陸における国共内戦で劣勢に立たされた国民党が台湾へ逃げ、反転攻勢を目指すべく、体勢を立て直そうとします。しかし、大陸からやってきた人間(外省人)は台湾での諸々の権力を掌握する一方で、元々台湾にいた人々(本省人)は政治参加が許されず、また経済的にも不利な立場へ追いやられたため、外省人と本省人との間に軋轢が生じ、腹に据えかねた内省人たちは1947年の二二八事件で外省人に対して不満を爆発させました。これに対して国民党政府は徹底的に弾圧し、万単位に及ぶ多くの本省人が犠牲になります。それ以降、台湾では1987年まで戒厳令が敷かれることになり、長年に及んで恐怖政治(いわゆる白色テロ)が台湾の市民を支配し続けました。そしてその中で政府から目をつけられた人々は政治犯として逮捕され、絶海の孤島である緑島の収容所へ送り込まれてきたのでした。
1987年に戒厳令が解除された後、緑島の政治犯収容所は刑事犯(主に暴力団)を収容する監獄へと役割を変えましたが、日本の国会議員に相当する立法委員から、この緑島の監獄を歴史伝承の博物館として残していこうとする提案がなされたため、2000年代に入って政府の手により保存改修工事が行われ、現在は「緑島人権文化園区」として一般に開放されています。
政治犯収容所とは関係ありませんが、現在も緑島には刑務所があり、南寮の街から島の北側を周回すると、かならず刑務所のゲート前を通過します。
島の北側には奇岩が連なる風光明媚が海岸が続いているのですが、そんな奇岩の一つである将軍岩付近には、海に突き出した芝生の広場と石材で積み上げられた円形の屋外ホールが広がっています。ここは「人権記念公園」。屋外ホールを形づくる石材の壁には、白色テロで受難に遭った方々の名前が刻まれています。またこの円形の造形には受難者たちの心情が表現されているんだそうです。
監獄の前には白い砂と青い海が広がり、牛を曳くおじさんがのんびりと歩いていました。白色テロという言葉から受ける印象と180度異なる長閑な光景です。
でもおじさんが歩き去った道の背景に聳える岩には、いまでも戒厳令時代の「滅共復国」というスローガンが残されていました。
島の北部には政治犯を監禁した施設が集まっているのですが、この無味乾燥とした建物は「緑洲山荘」という名の監獄で、1972年から運用が開始されたもの。現在は台東県により歴史的建造物として登録され、監獄博物館として一般開放(無料)されています。
中に入るとさっそくスローガンの雨あられに見舞われます。
監視塔と高い塀は監獄の象徴的な建造物ですね。塀の上には有刺鉄線が張り巡らされていました。
こちらは「戒護中心」と称する建物。戒護ですから、いわゆる刑務官の詰所みたいなものかな。
内部には「獄外之囚」と題して、一人一人のエピソードが写真と共に掲示されていました。そのタイトルから推測するに、収容されなかったものの、白色テロによって受難に遭った市井の人々の記録が紹介されているのでしょう。
「戒護中心」の裏手に建てられているのは「独居房」棟。廊下の両側にドアが並び、板敷きの小部屋に便器だけが取り付けられた独居房が並んでいました。
こちらは「礼堂」。いわゆるホールですね。このホールへ入るアプローチには、まるで道しるべのように、民主主義に欠かせない各種権利を記したシールが貼られていました。これらのシールは、ホールのみならず、敷地内の随所に貼られています。
監獄が使われていたころ、収容者はこのホールに集められて訓話を聞かされていたのでしょう。このホールの内部に展示されているものは、戒厳令下における恐怖政治の歴史の流れや当時の各種史料、そして政治犯として囚われた人々を救おうとした多くの運動の記録などです。
「緑洲山荘」を象徴する建物が、この「八卦楼」と称される獄舎です。八卦とは、地元の人の言葉でヤシガニのことを指すんだそうです。この建物の外観がヤシガニに似ているらしいのですが・・・
「八卦楼」の中心には六角形の塔が据えられ、そこからX字を潰したように2階建ての棟が4本伸びています。その形状がヤシガニに例えられたのでしょう。4棟のハブである中心部は吹き抜けになっています。中央に監視を置くことによって効率的な刑務所運営を図るというパノプティコンの典型的な構造ですね。
2階建の棟が4棟あるということは、2×4=8区画に分かれているわけです。実際に中央の吹き抜けに面して、各フロアの入り口には、壱区、弐区・・・柒区、捌区といったように大字表記で区分が表示されており、各棟の廊下に部屋が並んでいます。収容分類などによって扱い方がことなるためか、舎房には様々なサイズが用意されており、合計すると52室もあるんだとか。
一部の雑居房では、収容者たちが話し合っている当時の様子が人形で再現されていました。
「八卦楼」の裏手にはタイル張りの貯水槽が残されていました。小さな島ですから真水の確保にはさぞ苦労したことでしょう。
「緑島人権文化園区」の総面積は約32ヘクタールもあり、「緑洲山荘」はその一部にすぎません。
「緑洲山荘」を出た私は、その東隣にある「新生訓導処」にも立ち寄ることにしました。その名前から想像できるように、政治犯として収容した人々に対して思想教育を行う施設だったようです。
「新生訓導処」の敷地を囲む壁には、国民党のスローガンがずらり。三民主義の名の下に無辜の人々が苦しめられたとしたならば、そのイデオロギーを提唱した孫文は草葉の陰で落涙していたことでしょう。
台座に「永懐領袖」と記された蒋介石(蒋中正)の胸像を見ながら、現在「全区模型展示館」として開放されている建物へと向かいます。この無骨な建物はかつて「中正堂」と呼ばれ、警備総司令部の集会所として使われていたんだとか。
旧「中正堂」の壁には、当時の思想教育の様子をコミカルに表現したイラストが描かれているのですが、訓導している教官の顔が、ひらがなの「へのへのもへじ」になっているのがユニークでした。特定の人の顔を想像させずに人物を描くには、日本の「へのへのもへじ」が都合良かったのかもしれませんが、そうすることにより、誰でも思想教育の被害者となるばかりでなく、特定の思想を上から押し付ける加害者的な立場にもなりうることを示唆しているようでした。
エントランスには収容者をイメージした立体像が立っていました。像をあえてモノトーンにしたことに、へのへのもへじと同じような深い意味が感じられます。
館内で最も大きな展示は、当時を再現したジオラマ。
ビジュアルに訴えかけるようなわかりやすい説明展示も充実していました。
旧「中正堂」の前に立つ廃屋は「福利社」と称する売店の跡。前回記事の「柚子湖」で見られた廃屋と同じようにサンゴ礁岩で築いたものらしく、屋根はほとんどが崩れており、一般開放に当たって小屋に木材の柱と梁を立てて、往時が想像できるような配慮がなされていました。
その近くに建っているバラックも、おそらく一般開放に際して当時の獄舎を再現したものと思われます。各棟ではテーマ別の展示が行われていました。
単に展示するのではなく、アート的な要素を加えることにより、見易くなるとともにメッセージ性がより強調されていました。
4棟ある再現バラックの中でも最もびっくりしたのが、当時の獄舎内の様子を再現したブロックです。通路を挟んで2段の寝台が並んでおり、まるで生きているかのように躍動感のある収容者の蝋人形が置かれていたのでした。収容者たちは語り合ったり、ギターを弾いたり、囲碁をさしたりと、様々なスタイルで無念の時間を過ごしたことが表現されていました。またその奥の部屋では病で苦しんで寝込んでいると思しき姿や、トイレで排泄している様子まで再現されていました。
敷地の裏手には白い建物の廃墟が放置されていました。どうやらこの廃墟は病院跡のようですが、こちらまで改修する計画はなかったのかな。
上述したように「緑島人権文化園区」の総面積は約32ヘクタールもあり、各エリアににおける説明展示が多く、内容も分厚いので、その全てをしっかり見学しようとすると、長時間を要します。私は意気込んで訪問したつもりですが、それでも前半の「緑洲山荘」の見学に時間と体力を費やしてしまい、後半の「新生訓導処」に至ると、もう既に疲れてしまった上に閉館時間が迫っていたため、見学が省略気味になってしまいました。そのため当記事でも後半ではキャプションの内容が薄くなっております。
それでもこの島へ来たからには、訪れるべき史跡です。島を取り囲む大海洋のきらめきとは対照的な台湾史の深い闇を学ぶことで、当たり前のように享受している民主主義や自由に関するあらゆる権利のありがたさを改めて実感しました。
.
第二次大戦後、台湾は日本の統治下から離れますが、その代わり、中国大陸における国共内戦で劣勢に立たされた国民党が台湾へ逃げ、反転攻勢を目指すべく、体勢を立て直そうとします。しかし、大陸からやってきた人間(外省人)は台湾での諸々の権力を掌握する一方で、元々台湾にいた人々(本省人)は政治参加が許されず、また経済的にも不利な立場へ追いやられたため、外省人と本省人との間に軋轢が生じ、腹に据えかねた内省人たちは1947年の二二八事件で外省人に対して不満を爆発させました。これに対して国民党政府は徹底的に弾圧し、万単位に及ぶ多くの本省人が犠牲になります。それ以降、台湾では1987年まで戒厳令が敷かれることになり、長年に及んで恐怖政治(いわゆる白色テロ)が台湾の市民を支配し続けました。そしてその中で政府から目をつけられた人々は政治犯として逮捕され、絶海の孤島である緑島の収容所へ送り込まれてきたのでした。
1987年に戒厳令が解除された後、緑島の政治犯収容所は刑事犯(主に暴力団)を収容する監獄へと役割を変えましたが、日本の国会議員に相当する立法委員から、この緑島の監獄を歴史伝承の博物館として残していこうとする提案がなされたため、2000年代に入って政府の手により保存改修工事が行われ、現在は「緑島人権文化園区」として一般に開放されています。
政治犯収容所とは関係ありませんが、現在も緑島には刑務所があり、南寮の街から島の北側を周回すると、かならず刑務所のゲート前を通過します。
島の北側には奇岩が連なる風光明媚が海岸が続いているのですが、そんな奇岩の一つである将軍岩付近には、海に突き出した芝生の広場と石材で積み上げられた円形の屋外ホールが広がっています。ここは「人権記念公園」。屋外ホールを形づくる石材の壁には、白色テロで受難に遭った方々の名前が刻まれています。またこの円形の造形には受難者たちの心情が表現されているんだそうです。
監獄の前には白い砂と青い海が広がり、牛を曳くおじさんがのんびりと歩いていました。白色テロという言葉から受ける印象と180度異なる長閑な光景です。
でもおじさんが歩き去った道の背景に聳える岩には、いまでも戒厳令時代の「滅共復国」というスローガンが残されていました。
島の北部には政治犯を監禁した施設が集まっているのですが、この無味乾燥とした建物は「緑洲山荘」という名の監獄で、1972年から運用が開始されたもの。現在は台東県により歴史的建造物として登録され、監獄博物館として一般開放(無料)されています。
中に入るとさっそくスローガンの雨あられに見舞われます。
監視塔と高い塀は監獄の象徴的な建造物ですね。塀の上には有刺鉄線が張り巡らされていました。
こちらは「戒護中心」と称する建物。戒護ですから、いわゆる刑務官の詰所みたいなものかな。
内部には「獄外之囚」と題して、一人一人のエピソードが写真と共に掲示されていました。そのタイトルから推測するに、収容されなかったものの、白色テロによって受難に遭った市井の人々の記録が紹介されているのでしょう。
「戒護中心」の裏手に建てられているのは「独居房」棟。廊下の両側にドアが並び、板敷きの小部屋に便器だけが取り付けられた独居房が並んでいました。
こちらは「礼堂」。いわゆるホールですね。このホールへ入るアプローチには、まるで道しるべのように、民主主義に欠かせない各種権利を記したシールが貼られていました。これらのシールは、ホールのみならず、敷地内の随所に貼られています。
監獄が使われていたころ、収容者はこのホールに集められて訓話を聞かされていたのでしょう。このホールの内部に展示されているものは、戒厳令下における恐怖政治の歴史の流れや当時の各種史料、そして政治犯として囚われた人々を救おうとした多くの運動の記録などです。
「緑洲山荘」を象徴する建物が、この「八卦楼」と称される獄舎です。八卦とは、地元の人の言葉でヤシガニのことを指すんだそうです。この建物の外観がヤシガニに似ているらしいのですが・・・
「八卦楼」の中心には六角形の塔が据えられ、そこからX字を潰したように2階建ての棟が4本伸びています。その形状がヤシガニに例えられたのでしょう。4棟のハブである中心部は吹き抜けになっています。中央に監視を置くことによって効率的な刑務所運営を図るというパノプティコンの典型的な構造ですね。
2階建の棟が4棟あるということは、2×4=8区画に分かれているわけです。実際に中央の吹き抜けに面して、各フロアの入り口には、壱区、弐区・・・柒区、捌区といったように大字表記で区分が表示されており、各棟の廊下に部屋が並んでいます。収容分類などによって扱い方がことなるためか、舎房には様々なサイズが用意されており、合計すると52室もあるんだとか。
一部の雑居房では、収容者たちが話し合っている当時の様子が人形で再現されていました。
「八卦楼」の裏手にはタイル張りの貯水槽が残されていました。小さな島ですから真水の確保にはさぞ苦労したことでしょう。
「緑島人権文化園区」の総面積は約32ヘクタールもあり、「緑洲山荘」はその一部にすぎません。
「緑洲山荘」を出た私は、その東隣にある「新生訓導処」にも立ち寄ることにしました。その名前から想像できるように、政治犯として収容した人々に対して思想教育を行う施設だったようです。
「新生訓導処」の敷地を囲む壁には、国民党のスローガンがずらり。三民主義の名の下に無辜の人々が苦しめられたとしたならば、そのイデオロギーを提唱した孫文は草葉の陰で落涙していたことでしょう。
台座に「永懐領袖」と記された蒋介石(蒋中正)の胸像を見ながら、現在「全区模型展示館」として開放されている建物へと向かいます。この無骨な建物はかつて「中正堂」と呼ばれ、警備総司令部の集会所として使われていたんだとか。
旧「中正堂」の壁には、当時の思想教育の様子をコミカルに表現したイラストが描かれているのですが、訓導している教官の顔が、ひらがなの「へのへのもへじ」になっているのがユニークでした。特定の人の顔を想像させずに人物を描くには、日本の「へのへのもへじ」が都合良かったのかもしれませんが、そうすることにより、誰でも思想教育の被害者となるばかりでなく、特定の思想を上から押し付ける加害者的な立場にもなりうることを示唆しているようでした。
エントランスには収容者をイメージした立体像が立っていました。像をあえてモノトーンにしたことに、へのへのもへじと同じような深い意味が感じられます。
館内で最も大きな展示は、当時を再現したジオラマ。
ビジュアルに訴えかけるようなわかりやすい説明展示も充実していました。
旧「中正堂」の前に立つ廃屋は「福利社」と称する売店の跡。前回記事の「柚子湖」で見られた廃屋と同じようにサンゴ礁岩で築いたものらしく、屋根はほとんどが崩れており、一般開放に当たって小屋に木材の柱と梁を立てて、往時が想像できるような配慮がなされていました。
その近くに建っているバラックも、おそらく一般開放に際して当時の獄舎を再現したものと思われます。各棟ではテーマ別の展示が行われていました。
単に展示するのではなく、アート的な要素を加えることにより、見易くなるとともにメッセージ性がより強調されていました。
4棟ある再現バラックの中でも最もびっくりしたのが、当時の獄舎内の様子を再現したブロックです。通路を挟んで2段の寝台が並んでおり、まるで生きているかのように躍動感のある収容者の蝋人形が置かれていたのでした。収容者たちは語り合ったり、ギターを弾いたり、囲碁をさしたりと、様々なスタイルで無念の時間を過ごしたことが表現されていました。またその奥の部屋では病で苦しんで寝込んでいると思しき姿や、トイレで排泄している様子まで再現されていました。
敷地の裏手には白い建物の廃墟が放置されていました。どうやらこの廃墟は病院跡のようですが、こちらまで改修する計画はなかったのかな。
上述したように「緑島人権文化園区」の総面積は約32ヘクタールもあり、各エリアににおける説明展示が多く、内容も分厚いので、その全てをしっかり見学しようとすると、長時間を要します。私は意気込んで訪問したつもりですが、それでも前半の「緑洲山荘」の見学に時間と体力を費やしてしまい、後半の「新生訓導処」に至ると、もう既に疲れてしまった上に閉館時間が迫っていたため、見学が省略気味になってしまいました。そのため当記事でも後半ではキャプションの内容が薄くなっております。
それでもこの島へ来たからには、訪れるべき史跡です。島を取り囲む大海洋のきらめきとは対照的な台湾史の深い闇を学ぶことで、当たり前のように享受している民主主義や自由に関するあらゆる権利のありがたさを改めて実感しました。
.