西武秩父駅の温泉施設を体験して
その感想を話したらなぜか人とお風呂と
温泉に対しての違いがあることが解り、
改めてそこら辺をまとめておこうと思います。
というのは私のお風呂に対する思い入れは
近所の銭湯に由来します。
銭湯とは社会のひとつの窓であり、人との交流や
社会生活上の重要な舞台でもあります。
私が通ったのは裁判所の近くと柳島通りのクラブ湯と
野坂にあった銭湯です。
今でもクラブ湯だけが現存します。
なぜ銭湯に思い入れがあるかといえばそれは
家族や家庭という基本のコミュニティから
町内というご近所のコミュニティとさらに
地域の接点としての銭湯という社交場が存在し、
そこで出会う人というのが普段町で出会う人とは
違う人たちであり、銭湯に出かけることで人と
出会いまたついでにお店に寄ったりとして違う
体験をしてという社会の窓としての役割があった
のです。
そして、ふとした疑問として私たちのように歩いて
銭湯に行ける地域の人以外は果たしてお風呂はどうして
いたのかとずっと疑問に思っていました。
各家に皆風呂があったのでしょうか。
私の家も私が小学生になったころには家に風呂ができ
ました。
風呂を作ると今度は風呂を沸かすという手間がかかり、
それは主に私の任務だったのです。
夏場はすぐに沸いたからいいのですが、冬場はなかなか
沸かず苦労した思い出があります。
やがてそれらの苦労も石油釜の導入でなくなり、風呂に
対する思い入れやありがたみも随分軽いものに変わったと
思います。
今の人は生まれた時からすでに風呂はスイッチ一つで
沸くものであり、各家にあるものが普通と思っている
でしょうし、風呂にはいれるありがたみもそんな感じる
こともないでしょう。
そんなことが少子化とか活力のない社会とかにつながって
いるように感じます。
食事もコンビニで買うものという人が増え、何のために
働いて生活してという基本の行動が随分と揺らいできて
いるので人々の生活の幸せの元とか豊かさとか価値が
薄らいで人と接して暮らすよろこびとか自然を感じて
自然とともに生きる喜びなど本来感じてしかるべきもの
がネットの情報やスマホでつながることだけがすべてと
思っている若者に未来を託せるのかと思うのです。
普通に食料を自分で獲得して料理して風呂を沸かしてはいる
という基本の生き方をまず数年経験させるということが
教育として一番必要なのではないかと思われます。
そんなことを考えたことのひとつに祭りの湯の話を人とした時
、やはり自分のうちの風呂が一番いいですねという人と
私が祭りの湯に行ったときにあった同級生が次の日にも
入りに行っていたことからひとそれぞれの風呂の価値に
差があり、それは何から来ていて今問題となっている
格差とも重要な関係があるのではと思えたからです。
生活に根差した喜びとそれを共有できる喜びの拡大を
目指すことが今地域に起きている日本の問題も解決の
元とすることができるのではと考えました。
その感想を話したらなぜか人とお風呂と
温泉に対しての違いがあることが解り、
改めてそこら辺をまとめておこうと思います。
というのは私のお風呂に対する思い入れは
近所の銭湯に由来します。
銭湯とは社会のひとつの窓であり、人との交流や
社会生活上の重要な舞台でもあります。
私が通ったのは裁判所の近くと柳島通りのクラブ湯と
野坂にあった銭湯です。
今でもクラブ湯だけが現存します。
なぜ銭湯に思い入れがあるかといえばそれは
家族や家庭という基本のコミュニティから
町内というご近所のコミュニティとさらに
地域の接点としての銭湯という社交場が存在し、
そこで出会う人というのが普段町で出会う人とは
違う人たちであり、銭湯に出かけることで人と
出会いまたついでにお店に寄ったりとして違う
体験をしてという社会の窓としての役割があった
のです。
そして、ふとした疑問として私たちのように歩いて
銭湯に行ける地域の人以外は果たしてお風呂はどうして
いたのかとずっと疑問に思っていました。
各家に皆風呂があったのでしょうか。
私の家も私が小学生になったころには家に風呂ができ
ました。
風呂を作ると今度は風呂を沸かすという手間がかかり、
それは主に私の任務だったのです。
夏場はすぐに沸いたからいいのですが、冬場はなかなか
沸かず苦労した思い出があります。
やがてそれらの苦労も石油釜の導入でなくなり、風呂に
対する思い入れやありがたみも随分軽いものに変わったと
思います。
今の人は生まれた時からすでに風呂はスイッチ一つで
沸くものであり、各家にあるものが普通と思っている
でしょうし、風呂にはいれるありがたみもそんな感じる
こともないでしょう。
そんなことが少子化とか活力のない社会とかにつながって
いるように感じます。
食事もコンビニで買うものという人が増え、何のために
働いて生活してという基本の行動が随分と揺らいできて
いるので人々の生活の幸せの元とか豊かさとか価値が
薄らいで人と接して暮らすよろこびとか自然を感じて
自然とともに生きる喜びなど本来感じてしかるべきもの
がネットの情報やスマホでつながることだけがすべてと
思っている若者に未来を託せるのかと思うのです。
普通に食料を自分で獲得して料理して風呂を沸かしてはいる
という基本の生き方をまず数年経験させるということが
教育として一番必要なのではないかと思われます。
そんなことを考えたことのひとつに祭りの湯の話を人とした時
、やはり自分のうちの風呂が一番いいですねという人と
私が祭りの湯に行ったときにあった同級生が次の日にも
入りに行っていたことからひとそれぞれの風呂の価値に
差があり、それは何から来ていて今問題となっている
格差とも重要な関係があるのではと思えたからです。
生活に根差した喜びとそれを共有できる喜びの拡大を
目指すことが今地域に起きている日本の問題も解決の
元とすることができるのではと考えました。