月末にきてあわただしく金融機関を回り、
どうにかすべての手当てをし終えてお昼となり、
これがすべて自分の口座内で済んでいる今は
よいがと安堵している自分に次なる展開を
自ら促すもう一人の自分も見え隠れして複雑な
思いもするのでした。
一度拡大しだすとそれは止められなくなり、
もはや自分だけの意志ではどうともできない事態も
顕出して結局なくなっていくさまをたくさん見ている
だけに次なる一手はやはり自然慎重にならざるを
得ません。
世の中は選挙モードとなり、やたらと街宣車が
秩父でも行き来し、党の主張などを並べていきますが、
看板だけ変えて出てくる人は前と同じというようなことに
なれば途端に世間はそっぽを向くでしょう。
それにしても民進党の代表自らが自身の党から立候補
せず無所属での出馬を表明したのはびっくりです。
本気で政権交代まで持って行く気なのかそれとも
やけくそなのか自身の所属するものがそんなに
軽々しいものなのか有権者としてはよく見極めねば
ならないでしょう。
さて、そんな下世話の様子とは異なり、季節はより深く
秋というステージに突き進み、やがて山には雪が
見られるだろうとわくわくとする季節になってきました。
空気は花の香りに満ち、また今年も栗蒸し羊羹が食べられ
松茸料理や季節の味覚も味わえるようになり、豊かな季節を
実感します。
あれだけ苦しかった夜のランニングも花の香りを胸いっぱいに
吸い、虫の声が重層的に響く空間を行くとなんとも不思議な
感覚に陥り、だんだん夜の深い闇の中にはまっていくかのような
闇の深さを探りそれを味わいわけるような仕儀になっていきます。
そんな季節に以前はどこまでもすっきり感が伸びるような
東山魁夷の道のようなカロシトラジャやアンデスマウンテンを
勧めていましたが、もっと他の食べ物と合うようなものでも
いいのではと思うようになりました。
それはひとえにテレビでみた大原千鶴さんの料理に感じる
ところがあってからかもしれません。
料理とかサービスというのは決して自給いくらで判断される
労働ではなく、人を納得させるものにはそれなりの訳が
あります。
例えば和菓子の餡ひとつとっても作るのに何日もの手間が
かかり、売り出しても一日しか持たないものです。
今の世の中では、機械でそれを簡単に一日で作れて保存料を
入れて半年お店に並べられるようなものを作ります。
ところが、京都の和菓子屋のほとんどは室町時代から
変わらない手間と手法を続け、味を守っています。
それがわざわざ人を京都までひきつける魅力になって
いるわけですが、それについて人のなす行動とか手間とか
についてはあまり議論されません。
オリンピックの招致以来おもてなしという言葉がひとり
歩きし、一長一短に誰でもそれがなせるものと勘違いが
すすんでいます。
古いものをただ良しとしたり、伝統が尊ばれたりするのも
人がどうそれを守り伝えたかに意味があり、味を守るという
ことも目の前の利益ということでなく行動したから人を魅了し
感動を生むものなのです。
そんな意味で、ブラジルの日陰干しなどはそれを味わえば
人が何を失い、何を守ったのか思わずにいはいられません。
どうにかすべての手当てをし終えてお昼となり、
これがすべて自分の口座内で済んでいる今は
よいがと安堵している自分に次なる展開を
自ら促すもう一人の自分も見え隠れして複雑な
思いもするのでした。
一度拡大しだすとそれは止められなくなり、
もはや自分だけの意志ではどうともできない事態も
顕出して結局なくなっていくさまをたくさん見ている
だけに次なる一手はやはり自然慎重にならざるを
得ません。
世の中は選挙モードとなり、やたらと街宣車が
秩父でも行き来し、党の主張などを並べていきますが、
看板だけ変えて出てくる人は前と同じというようなことに
なれば途端に世間はそっぽを向くでしょう。
それにしても民進党の代表自らが自身の党から立候補
せず無所属での出馬を表明したのはびっくりです。
本気で政権交代まで持って行く気なのかそれとも
やけくそなのか自身の所属するものがそんなに
軽々しいものなのか有権者としてはよく見極めねば
ならないでしょう。
さて、そんな下世話の様子とは異なり、季節はより深く
秋というステージに突き進み、やがて山には雪が
見られるだろうとわくわくとする季節になってきました。
空気は花の香りに満ち、また今年も栗蒸し羊羹が食べられ
松茸料理や季節の味覚も味わえるようになり、豊かな季節を
実感します。
あれだけ苦しかった夜のランニングも花の香りを胸いっぱいに
吸い、虫の声が重層的に響く空間を行くとなんとも不思議な
感覚に陥り、だんだん夜の深い闇の中にはまっていくかのような
闇の深さを探りそれを味わいわけるような仕儀になっていきます。
そんな季節に以前はどこまでもすっきり感が伸びるような
東山魁夷の道のようなカロシトラジャやアンデスマウンテンを
勧めていましたが、もっと他の食べ物と合うようなものでも
いいのではと思うようになりました。
それはひとえにテレビでみた大原千鶴さんの料理に感じる
ところがあってからかもしれません。
料理とかサービスというのは決して自給いくらで判断される
労働ではなく、人を納得させるものにはそれなりの訳が
あります。
例えば和菓子の餡ひとつとっても作るのに何日もの手間が
かかり、売り出しても一日しか持たないものです。
今の世の中では、機械でそれを簡単に一日で作れて保存料を
入れて半年お店に並べられるようなものを作ります。
ところが、京都の和菓子屋のほとんどは室町時代から
変わらない手間と手法を続け、味を守っています。
それがわざわざ人を京都までひきつける魅力になって
いるわけですが、それについて人のなす行動とか手間とか
についてはあまり議論されません。
オリンピックの招致以来おもてなしという言葉がひとり
歩きし、一長一短に誰でもそれがなせるものと勘違いが
すすんでいます。
古いものをただ良しとしたり、伝統が尊ばれたりするのも
人がどうそれを守り伝えたかに意味があり、味を守るという
ことも目の前の利益ということでなく行動したから人を魅了し
感動を生むものなのです。
そんな意味で、ブラジルの日陰干しなどはそれを味わえば
人が何を失い、何を守ったのか思わずにいはいられません。