昨日は雨交じりの中、疲れ切り少し寝ていたいと思い朝食の後
ぼんやりとして今日はお休みしたいと考えていましたが、受けている
注文やこれからの季節のために焼かなくてはならない豆もあり、
朝から直ぐ焙煎に入りました。
とはいえこの焙煎も釜の調整という欠かせない作業をして常に手を入れないと
目指す味にはならないのです。
そして豆もただある豆を焼くことでなく、目指した味に豆を寝かしたり
休ませたり、新鮮なものをただ火を入れたらおしまいでないという色々と
経験と味と常に検証の繰り返しで得たものの積み上げでできていておいそれと
味を引き出せるものでもありません。
全ては人を感動させるにはそれなりの努力とその人の感動の幅とその人の
納得が詰まっているのです。それだけ貪欲に世の美を感じ感性を磨くとか
それなりの研鑽がその幅を広げより多くの人の心を癒すものにつながると
思います。
簡単に言えば個人の魂の器の幅が狭いままでは納得させる力も惹きつける
力も生み出すものも乏しいということで私の毎日のランニングも阿闍梨の
千日行のごとく続くのです。
何百年の前の絵や曲を味わい人の歴史を考え人のなすこととはを考えてみる
そんなことがないと更なる発展はないと思います。
最近ふと思ったのは昨日通った伝承館の坂でのテイカカズラです。
このテイカカズラの香りについては何度も書いてきましたが、
誰もが私が感じているような香りには感じないというもどかしさも
さることながら実際昨日通ると前に書いた通りトイレに置いてある
水石鹸のような香りなのです。
まあ、これなら人々が理解されないのも無理ないことと思うと同時に
私のように夜疲れてこの坂道に差し掛かるというシュチェーションに
ないと感じられないことと一時は思いました。しかし、私がジャスミンの
香りがするといい同じようにジャスミンが咲いていると言った人もいて
全く私だけのことでもなかったのです。つまり何かをして感動したとか
何かを得たように感じるというのにこのように行動から入るとか同じ事を
してみるというのも一つの手であり、昔からお稽古事などは皆そんな形式で
出来ていました。日本人の道というものはみなそんなことなのです。
しかし、マニュアル化とかプログラミングなどが進むと結構答えや結末は
皆同じ事と思えてくることや結果が解っていたらあえてやらなくてもいいのでは
という簡単な思考になっていくこともままあります。
色々な体験や色々な趣味の世界などを経てくると結局ゴールドベルク変奏曲
と同じことと思えてきます。
まあ最後まで言いませんが、高橋望氏が引用したTSエリオットの詩と同じと
いうことです。
ヒトラーが遺伝子情報の研究や聖遺物の収集に熱心だったという事実が現代の
物語や映画のもとになったりはてはゲームのアイテムに出てきたりしています。
有名なロンギヌスの槍はヒットラーも欲しがったといいますが、現存する槍は
現代の科学で偽造品であることが知られています。かといってそれを持つ教会の価値が下がったかというとそうでもなく現代でもその偽物の遺物をありがたがって多くの人を引き寄せています。西洋のことだからということでなく日本でも同様のことはあり、八岐大蛇を切ったら出てきた草薙の剣は三種の神器と
して天皇が神由来という証として代々伝わるものですが、壇ノ浦の戦いで海に沈んだことは知られています。しかし、三種の神器はなくなったかというと
現代でも続いて儀式も行われています。それらは写し型といわれる複製で
それもそもそも御神体として保管する神社があり人が見たり触れたりできないものとされ日本では科学的調査などされないのです。これは多くの古墳が
神域とされ科学的調査や立ち入りがされないのと同じです。戦後連合国に占領され
天皇は神でなく人間であると宣言させられましたが、日本人のこころまで
変えることなく現在に至りますが、要はいいとかわるとかでなく信じる人がいるということです。
これは人類が虚構を信じる能力により発展したきた歴史によります。
2000年以上に上るエルサレムの問題もどちらかに決着できず、どちらの宗教も
消えないとなると国連も処理できず平和は望めません。
これは非生産的でこれだけ科学が発展して世の中豊かになっているのに
それが享受できないでいるのはおかしなことでさらに人々の血が流されるのを
止めることができないのも全く愚かなことです。これは新たな虚構による
バージョンアップが必要なので現代の聖人に新たな聖地を決めてもらい
そちらにどちらの宗教も聖地と行事を移し、エルサレム周辺は宗教の空白地としどちらも軍事行動や宗教活動も禁止するとするのが国連や国際社会が求めることです。どちらも譲らないどちらも納得しないとするならどちらも使わない
しかないのです。
それを理解するまでこの問題もまだ数千年続くでしょう。
さて、こと珈琲についてはこのようなことはなくもっと自由です。
今のバラの咲く時期には絶対にバラの香りのガヨマウンテンがよく似合い
誰もがこの香りにやられます。
お茶のように道もなく、茶室の入り方や台詞まで決められてやっと
解るお茶の境地とは違い、今の時期誰もがジーパンとTシャツで
ふらふらになるまで走りこまなくても飲めば誰もが薔薇の花園に
降り立ったような心地になれるのです。
これは作庭家がより自然の庭に見せるために工夫してきた所業に通じ
人工物がいかに自然に取り入り一体になるかのように工夫されてきました。
自然とは決してほったらかしのままでよいことでなく、その窓から見える世界が
ずっと外の世界とつながる宇宙と一体のイメージであり、自分と宇宙の
のつながる曼荼羅なのです。
昔遊んだ田んぼの中を流れる小川には誰かが放流したのでもなく、小鮒や
ドジョウが住み着いていてよく釣りに出かけたものです。
今でも同じ場所に川がありますが、それ等は今は人口のコンクリートで
覆われ昔のように小鮒や土壌や田螺はいません。
これらは人為的に手を加えて自然の生態系を崩している例ですが、
便利さと人々の安全とおいそれと元の世界がよいとばかりは言えない
問題です。
ただイスラエルのように人々が死んだりはしていませんが、人類が
持続可能かは信じる虚構に価値はあるかもう一度議論する必要があります。