King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

赤い月と夏の香り

2021年05月27日 10時57分56秒 | 珈琲

五輪前にコロナ感染拡大がより敏感な問題となる中、皆既月食があり

丁度いつも走る時間帯で皆既月食を見ながらのランができると楽しみでした。

 

走り出してみると月はもうすでになく、何やら赤い雲に覆われたところがあるなあと

いうくらいの感じで月が徐々に隠れる感じは味わえませんでした。

折り返しの頃の秩父病院から国道に向かう道で武甲山の上に徐々に顔を出した

月が見えだしました。

 

もう既に赤い月という感じではなく、明るさもあり一年で一番近いという

スーパームーンという皆既月食もこんなもんかという感じです。

 

その二日前いつものコースとは違い公園橋から蒔田へ回るコースで

また雷に打たれたように衝撃的なにおいの反応がありました。

それは夏草の香りを嗅ぎながら走っていたら起きてその香りから

色々な香りを連想していたら急に夏の風物詩的な食べ物の臭いを

嗅いだように感じました。それははっきりとした記憶を思い出して

感じたのに何の臭いかまでは解りませんでしたが、夏の頃繰り返し

嗅いだ臭いです。その生々しい感覚が強烈に残りましたが、思い出せない

のも気持ち悪いのですっきりとしないままその経験はおもいしこりの

ように残ってしまいました。

 

そんな香の記憶とともに生活の彩として食卓に自家製ピクルスや

マッシュルームのオイル漬けなどを作りキッチンのカウンターに

並べたいと思いネットでレシピを調べました。

 

すると自家製ピクルスは簡単に作れるものの日持ちせず作ってもすぐ

食べないといけないということであまり作る気がしなくなってしまい

ました。

 

おばんざいのようにカウンターにいつも食品が並ぶ大家族的キッチンが

なんとなく心地よいようなイメージでせめてコロナの今はそんなキッチンで

ありたいと思いついたピクルス制作ですが早くも頓挫しました。

 

それに引き換えスーパーに行くといろんな漬物が売っており自分で

ピクルスなど作らなくてもすぐ食べられるものが買えるのです。

 

ただ私の好きなキャベツのぬか漬けはなく、ザーサイの浅漬けも

ありません。

 

それならばというので自作ということになるのですが、見た目と

保存食としてのいつでも食べられて日持ちのするという特性が

あるものというのはなかなかなく、珍しい漬物やハーブなどを

買っては見るものの実際の制作にはかからないのでした。

 

それでも今まで知らない食べ物とか出来上がりのものばかりでなく、

自分であれこれと考えて作るというのは重要でいつものスーパーも

実はこんなにいろいろとスパイスや塩の種類とかある事を知り楽しい

思いでした。

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五月の空に

2021年05月25日 11時05分09秒 | 珈琲

昨年の今頃のブログやフェイスブックでは庭に咲く花がよく

載っていました。

 

自然とはと考えると今ではそんなこともばからしくなり、写真を撮ることも

なくいます。ただ、今年のバラは今までにないほど大きく咲いてそれは見事でした。

 

それは何かのご褒美のようでもあるし、ただのバラの自己主張のようでもある

ところがただずっと眺めてしまうのでした。

 

昨年との変化は確実にあるもののそれを現わすことは簡単ではなく、それより伝える

ことはそんなことでなく、新しく感じた世の中のこととか今ある世界のこととかであり、

日本の特殊性とか精神面とかでしょう。

 

先日訪れたミューズパークは驚いたことに駐車場が閉鎖となっていました。

これは県内の移動を制限するためということですが、公園自体は閉鎖ではなく

車で来る人が利用できないような措置ということで県内の移動の制限はつまり

他所からこの公園に来ないでくださいです。ところが、市内の利用者でも車で

ないと来られないこの公園に対して閉鎖してどうするのという思いが強くします。

 

今起きているワクチン接種の問題も似たようなもので何か対策をしましょうと

始まっているものの全体の知恵が遠く及ばず深まる混迷は広がる一方で連日

役所のミスばかり報道されまじめに取り組む地域の人たちの努力もみんなバカ者の所業のような捉え方をされています。

 

そんな中にあって自衛隊による大規模接種は二回目にしてはや予約が埋まらない

状況だと言います。これなどももともと二重にかぶせて行われたことでこうなることは

予測できたはずです。となればアクティブな層に緊急に打ちたいという本来の目的を

出すいい機会になってきたわけです。いずれにしろワクチン接種が加速することを願います。

 

今月の少ない自己時間はもっぱらビデオを見て過ごすだけでしたが、念願の映画鑑賞も

やっと見たいものが現れたのに出かけるのは未だ躊躇する事態です。

 

テレビの録画で見た『ブロークバックマウンテン』は長く見たい映画でしたが、

ホモ映画ということで躊躇もしていたものでした。でもやっとみたと同時にそれは

驚きの連続でした。2006 年の映画なのにすごい解釈とか時代感覚とか色々修正を

加えて考えたりしてみないと正確な当時の作品価値とかどうしてこれが評価され

ゲイ問題とかが当時どうだったかとか差別問題が敏感な今の時期とどうかかわるのか

つい考えてみてしまうのでした。

 

2006年当時の話でもなく、テレビや映画でもゲイのキスや行為の映像が普通に流れ

る現代では当時のテキサスが性に対して閉鎖的で差別されそれも見つかればリンチされて

しまうような土地であり、現代の同性愛者でも結婚できるという社会ではないのです。

では、2006年はどうだったのかというのが気になるところでさらに問題はゲイの差別は

この映画では告発でも差別でもなくテーマでもなく普通にラブストーリーとして

たまたま男と男の愛を描いただけというところです。

 

以外なのはギレンホールというスターがゲイ役ということでさらに、その奥さん役は

当時売れて人気者でもあったアンハサウェイが演じた役があまりに端役的扱いなのに衝撃を受けなんでこんなぽっと出の扱いでそれを体当たり的に演じているのかどうして

こんな扱いなのかと不思議でなりませんでした。

今でこそハリウッドの看板スターであり、セレブ女優のイメージですが、魅力は

マリリンモンローに通じるおバカっぽさとかかわいさでコメディ映画の演技とは

違うところで勝負のためなのかでもこの年にプラダを着た悪魔がとられたことなどから

さらに謎は深まり、なぜこの映画ではこんな扱いなのかとずっと考えてしまいました。

 

もちろんその後見た映画『オーシャンズ8』でその魅力を再確認し、女優としての

力も魅力も解った感じがしました。

同じようになぜと思うことは『ヘイルシーザー』にもありました。これはコーエン兄弟の作品ということで見たのですが、

出演している俳優陣が大物ばかりです。それもなぜこんな大物がこんな役という感じで

カメオ出演という感じでなく端役を全力でやっているのです。既に大看板であり、主役級な人が演技の定まらない人のような扱いを受けそれをまともにやっているという

衝撃は私だけでしょうか。なかでもこの映画のジョージクルーニーです。年老いて

かつてのカッコよさも顔の切れもなく、ハリウッドの大物俳優でテレビの登場で危機に

ある映画会社が起死回生で作る超大作の主役映画に主役で出る役ですが、ジョージクルーニーらしくないのです。

 

最初ジョージクルーニーによく似ているなあと思うのに扱いと役でまさかなあと思えてしまうのです。

日本のように売れるとそのキャラから抜けられなくなりそんな役しかやらせてもらえないのとは裏腹に監督が違えばこうも違って撮られるということです。

 

『アウトオプサイト』のジョージクルーニーとジェニファーロペスのようにスタイリッシュでかっこよいスターを誰もが見たいのです。ただ、この時のジェニファーロペスより後の『シェイズオブブルーブルックリン警察』の時のおばさんおばさんした方に魅力を感じる方もいるかもしれません。

 

私はどちらも好きでどちらと決めきれないジェニファーロペス問題です。

 

そんなドラマ遍歴をした今月でした。

 

どこにも出かけない映画館にも行かない。スキーや温泉だけでなく、春の山菜採集

さえしないのに毎日珈琲を焼くだけで疲れ果てているのでした。

 

そんな中でも珈琲は色々なことを考えさせ色々な面も見させてくれるのです。

取り巻く状況は厳しく、値段も上がりものも少ないという中、当店では味を

重視し、名前だけとかタイトルホルダーなどにこだわらず、真に味のいいもの

値段以上の味と感動を常に優先します。

 

インドネシアも島により味がまるで違います。スマトラ島で有名なマンデリンが一番

日本では認知されていますが、昨今はトラジャやガヨなどアラビカの人気種も知られて

来て値上がりしています。

反面かつてのビックアチェとかリントンとかバリとかたくさんあったブランド豆は

ことごとく魅力を失いました。

当店ではトラジャをずっと扱っていましたが、それより安いクイーンスマトラは

マンデリンの魅力を知らない人にもぜひ味わってもらいたい今どきの味です。

この季節ガヨマウンテンのような花園のような香りの豆は季節にぴったりで

とても気持ちの良い味です。

 

そんな官能の世界の味もよいですし、生活とともにいつも飲みたい味ということで

ブラジルの普遍性も是非合わせて飲んでいただき常備していただきたい豆です。

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意識のかなた、借景と自然と

2021年05月18日 09時41分00秒 | 珈琲

昨日は雨交じりの中、疲れ切り少し寝ていたいと思い朝食の後

ぼんやりとして今日はお休みしたいと考えていましたが、受けている

注文やこれからの季節のために焼かなくてはならない豆もあり、

朝から直ぐ焙煎に入りました。

 

とはいえこの焙煎も釜の調整という欠かせない作業をして常に手を入れないと

目指す味にはならないのです。

そして豆もただある豆を焼くことでなく、目指した味に豆を寝かしたり

休ませたり、新鮮なものをただ火を入れたらおしまいでないという色々と

経験と味と常に検証の繰り返しで得たものの積み上げでできていておいそれと

味を引き出せるものでもありません。

 

全ては人を感動させるにはそれなりの努力とその人の感動の幅とその人の

納得が詰まっているのです。それだけ貪欲に世の美を感じ感性を磨くとか

それなりの研鑽がその幅を広げより多くの人の心を癒すものにつながると

思います。

 

簡単に言えば個人の魂の器の幅が狭いままでは納得させる力も惹きつける

力も生み出すものも乏しいということで私の毎日のランニングも阿闍梨の

千日行のごとく続くのです。

 

何百年の前の絵や曲を味わい人の歴史を考え人のなすこととはを考えてみる

そんなことがないと更なる発展はないと思います。

 

最近ふと思ったのは昨日通った伝承館の坂でのテイカカズラです。

 

このテイカカズラの香りについては何度も書いてきましたが、

誰もが私が感じているような香りには感じないというもどかしさも

さることながら実際昨日通ると前に書いた通りトイレに置いてある

水石鹸のような香りなのです。

 

まあ、これなら人々が理解されないのも無理ないことと思うと同時に

私のように夜疲れてこの坂道に差し掛かるというシュチェーションに

ないと感じられないことと一時は思いました。しかし、私がジャスミンの

香りがするといい同じようにジャスミンが咲いていると言った人もいて

全く私だけのことでもなかったのです。つまり何かをして感動したとか

何かを得たように感じるというのにこのように行動から入るとか同じ事を

してみるというのも一つの手であり、昔からお稽古事などは皆そんな形式で

出来ていました。日本人の道というものはみなそんなことなのです。

 

しかし、マニュアル化とかプログラミングなどが進むと結構答えや結末は

皆同じ事と思えてくることや結果が解っていたらあえてやらなくてもいいのでは

という簡単な思考になっていくこともままあります。

 

色々な体験や色々な趣味の世界などを経てくると結局ゴールドベルク変奏曲

と同じことと思えてきます。

 

まあ最後まで言いませんが、高橋望氏が引用したTSエリオットの詩と同じと

いうことです。

 

ヒトラーが遺伝子情報の研究や聖遺物の収集に熱心だったという事実が現代の

物語や映画のもとになったりはてはゲームのアイテムに出てきたりしています。

 

有名なロンギヌスの槍はヒットラーも欲しがったといいますが、現存する槍は

現代の科学で偽造品であることが知られています。かといってそれを持つ教会の価値が下がったかというとそうでもなく現代でもその偽物の遺物をありがたがって多くの人を引き寄せています。西洋のことだからということでなく日本でも同様のことはあり、八岐大蛇を切ったら出てきた草薙の剣は三種の神器と

して天皇が神由来という証として代々伝わるものですが、壇ノ浦の戦いで海に沈んだことは知られています。しかし、三種の神器はなくなったかというと

現代でも続いて儀式も行われています。それらは写し型といわれる複製で

それもそもそも御神体として保管する神社があり人が見たり触れたりできないものとされ日本では科学的調査などされないのです。これは多くの古墳が

神域とされ科学的調査や立ち入りがされないのと同じです。戦後連合国に占領され

天皇は神でなく人間であると宣言させられましたが、日本人のこころまで

変えることなく現在に至りますが、要はいいとかわるとかでなく信じる人がいるということです。

 

これは人類が虚構を信じる能力により発展したきた歴史によります。

2000年以上に上るエルサレムの問題もどちらかに決着できず、どちらの宗教も

消えないとなると国連も処理できず平和は望めません。

 

これは非生産的でこれだけ科学が発展して世の中豊かになっているのに

それが享受できないでいるのはおかしなことでさらに人々の血が流されるのを

止めることができないのも全く愚かなことです。これは新たな虚構による

バージョンアップが必要なので現代の聖人に新たな聖地を決めてもらい

そちらにどちらの宗教も聖地と行事を移し、エルサレム周辺は宗教の空白地としどちらも軍事行動や宗教活動も禁止するとするのが国連や国際社会が求めることです。どちらも譲らないどちらも納得しないとするならどちらも使わない

しかないのです。

それを理解するまでこの問題もまだ数千年続くでしょう。

 

さて、こと珈琲についてはこのようなことはなくもっと自由です。

今のバラの咲く時期には絶対にバラの香りのガヨマウンテンがよく似合い

誰もがこの香りにやられます。

 

お茶のように道もなく、茶室の入り方や台詞まで決められてやっと

解るお茶の境地とは違い、今の時期誰もがジーパンとTシャツで

ふらふらになるまで走りこまなくても飲めば誰もが薔薇の花園に

降り立ったような心地になれるのです。

 

これは作庭家がより自然の庭に見せるために工夫してきた所業に通じ

人工物がいかに自然に取り入り一体になるかのように工夫されてきました。

自然とは決してほったらかしのままでよいことでなく、その窓から見える世界が

ずっと外の世界とつながる宇宙と一体のイメージであり、自分と宇宙の

のつながる曼荼羅なのです。

 

昔遊んだ田んぼの中を流れる小川には誰かが放流したのでもなく、小鮒や

ドジョウが住み着いていてよく釣りに出かけたものです。

今でも同じ場所に川がありますが、それ等は今は人口のコンクリートで

覆われ昔のように小鮒や土壌や田螺はいません。

これらは人為的に手を加えて自然の生態系を崩している例ですが、

便利さと人々の安全とおいそれと元の世界がよいとばかりは言えない

問題です。

 

ただイスラエルのように人々が死んだりはしていませんが、人類が

持続可能かは信じる虚構に価値はあるかもう一度議論する必要があります。

 

 

 

 

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石楠花の咲かなかった庭

2021年05月15日 12時11分18秒 | 珈琲

令和になり万葉集とか注目されました。

それに関連することをこのブログでも取り上げ私がずっと気になっていた

歌の世界やそれにまつわる花の話もしてきました。

つい先日、躑躅にまつわる花にまた鮮烈な思いをさせられたことも

書きましたが、昨日のランニングでもまた不思議な思いと新たな

思いをしました。

 

金仙寺の原っぱを抜け秩父病院を通りあとは帰るだけとなる

キヤノンの大通りは相生まで一直線のずっと歩道のある道です。

大きい通りで信号も何か所かありますが、一応ここを最後

スパートして帰るのが最大の課題であり、ランニングペースに

乗せるのが目標です。つまりこの直線をキロ5分台のペースで

走るのですが、そのペースに乗ったときに嗅ぐ臭いに特別な

意味がこもるというか衝撃的な刺激を受けるのです。

 

昨日も前半ヘロヘロとジョギングモードで走り出し、息も整い

金仙寺原に向かう緩い下りで徐々にスピードを増しスパートに

向かうと今まで風呂を沸かすために燃された木の臭いや風呂の

臭いと食卓の様々など生活の臭いを嗅ぎながら走ってきたのが

段々自然の臭いを強く意識しだします。

 

ランニングモードになり、息も苦しく疲れもあり独特の境地に

なったときにこの自然の花の香りは強く精神に刺激を与えいろいろな

物を瞬時に感じたりエネルギーを得たように感じたりもします。

 

躑躅のところを通る頃その躑躅の中に今までとは違う香りを

感じました。それは何かの花なのか雑草の香りなのか良く解らない

のですが、伝承館のテイカカズラを連想させるようなハーブ系の

香りです。昨年はこの香りを嗅ぎ、テイカカズラの香りも楽しみたいと

コース変更したりしました。

 

そんなことを思いつつ、続いて橋の上の満開のアカシアのところを

通ると仏壇の香りのような懐かしい香りとグレープの臭いとか感じて

いると不意に全身が頭から振動して足先までリフレッシュするような

癒される戦慄を受けたのです。

 

それから様々なインスピレーションが頭に去来して、かつて行った旅の

思いでとか、神戸で見たアンドリューワイエスの窓の絵とか次々に

思い出し、鴨野長明が昨今おひとりさまの達人などともてはやされていること

などをつらつら考え出したのです。

 

神戸で見たアンドリューワイエスの窓は神戸異人館の中で、そのタワーの

中に飾られており、窓から見る借景もモチーフになっていることに

すごい強い印象を得て度々思い出すことではあるのですが、ふと気づくと

どんな大美術館でも借景を利用していない美術館はなく、どんなに有名な

庭園でもその屋敷内で完結しているということはなく必ず借景として

自然の風景を計算して作られていることなどを思いやがてそれから

鴨長明がやったこととはと考えが及びイスラエルとパレスチナにたどり着き

1000年も前聖地をめぐりイスラム兵に取り囲まれたイスラエルがロンギヌスの

槍を見つけて危機を脱した話などにつながり、あれからまた1000年もたっても

未だにお互いロケット弾を撃ち込む戦争をしているという愚かしさにコロナ以上の

愚かな脅威と感じるのでした。インドの感染拡大もヒンズー教の行事が

きっかけだというし、科学的知見で発展してきたはずの人類の行動は

結局はおろかなままでその愚かさで自然を破壊しすぎて自らの生活環境も

持続可能な状況をこわしそうになっているのです。

 

近年の人類の発展はめざましいものがあるものの発展してるのだか滅びに

向かっているのかはなはだ疑問なのでした。

 

この暑いような最近の陽気にアイスコーヒーの注文も入りだして

昨日は自らも水出しを作り飲んでみました。

余りに目の覚めるような清涼感にぐびぐびとあっというまにつくったものは

なくなってしまいました。

 

これは水出しを早く売り出そうと思いになり、今日あたり道の駅にも

出品しようと思います。

庭の石楠花は今年は咲きませんでしたが、今も咲いているうちの前を通ったり

毎年みたスキー宿での露天風呂の前の石楠花や草津のリフトの下から見る

一面の石楠花の群れとかはたまたミューズパークの石楠花までいくらでも

思い浮かべることができ、おひとり様のことと庭園の借景といろいろとつながつて

いると思える一連のものなのでした。

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ホース

2021年05月11日 10時05分57秒 | 珈琲

今月に入りゆっくりとテレビの前でビデオ鑑賞という時間もないまま

あわただしい日々が続きます。

連休終了でまたゆったりした日々が戻るかと思いきや相変わらずでした。

それに月末の支払いが連休で今月になりまたあたふたとしています。

 

どこも出かけずスキーもしないで冬が終わり、温泉に行きたかったとか

梅雨になってどこかゆっくりしに行こうかなどと思うのですが、現実には

とても今どこかに行く気にもなれず、まずはこの疲れを癒すことを考えて

見るのでした。

 

昨年の今頃は春に植えた花々を楽しみ、我が家に芍薬や数々のハーブの香る庭にできたことの喜びを感じていたのでした。

ところが、その小さな芍薬は夏の日差しで溶けてしまい、どうにかかろうじて

残った一本の木も花芽が付いていたのに今年は咲きませんでした。

 

それでも今年も春の花々の香りを日々嗅ぎそれぞれに様々な思いを掻き立てられ

自然とのかかわりとか自然が教えてくれるものを日々感じています。

 

この香りの物語は実に複雑で夜の夢の中にも出てくるし、はるか昔の記憶と

結びついていたり、何か予言めいたものも感じたりと実に広がりのある世界を

見せます。

なぜかこの話をしても誰も興味も共感もされないのですが、だれもが感じて

いるのはずのことが誰にも見えていなかったり感じてなかったりというのは

現実ではままある事です。

 

珍しい南国の花でその香りの物語が遠い過去から紡ぐ人々の物語などという

ことでなく、ありふれた普通の植え込みの躑躅が目で見ただけでなく香りを

嗅いで遥か昔の記憶を思い出すというのは私だけではないはずですが、

それにとどまらず実にさまざまに物語を含んでいることに誰も興味を示さない

というのも残念なことです。躑躅の昔の記憶と結びつくことといえば

くまんばちのことです。それにまつわる同級生と戯れた様々なこととか

アカシアの独特な強い香りに強い郷愁と仏壇の香りのような昔の記憶と

宗教的体験という刺激も受けたりと心地よいと感じる気持ちと再生を

体験しつつ、未来の予言も受けているように感じたりします。

 

そんな出来事に現実的な教示としては庭に撒く散水のホースにより

もたらされました。

ホームセンターで結構な値段がしたロールに巻かれた散水用のホースは

なんだかんだの末やっと思い切って買ったものでした。

それで当初はかなりのバージョンアップを感じていたのですが、それも

昨日までのことで普通こういう散水ホースは安いのは冬の寒さを経ると

急にボロボロと朽ちだしたり穴が開きだすという過去の記憶がよみがえる

ようなまだその寒い冬にもなっていないのにひと月経ったホースは一か所

また一か所とふさいでも次々と穴が開きだし安物をつかまされたという

感じを受けました。

 

昔と違い工業製品の質の高さを最近は感じていただけにまさかという事態

でした。

 

結局何も変わっていなかったという思いをさせられた事件でした。

 

このように珈琲の世界でも高いものを買い求めてコンテスト受賞豆や

カップオブエクセレンスのマークの付いた豆とかをありがたがって買って

も結局は珈琲じゃないような薄い味のないコーヒーを飲まされたりと

さんざん売り手の言葉に振り回されて流行に乗らない今のスタイルに

なったものの世の中はまだ高い豆を買い続けて信用しているという現実に

似ていると感じるのでした。

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季節と珈琲と連休後に思うこと

2021年05月06日 16時07分16秒 | 珈琲

昨年の連休はコロナ禍で道の駅も閉鎖となり、ロックダウンさながらの警戒をして迎えたのです。

ところが、三度目の緊急事態宣言を発令する事態になった今連休は人々はこの

緊急事態になれてしまい、マスクしてればいいだろうとか

息抜きにどこか行くくらいいいだろうと自分のリフレッシュを優先

させる人が増加してどこの観光地も人であふれ、都内では酒の提供が

できないので神奈川や千葉、埼玉といった地に連休を過ごしに来る人が

増えたようです。

 

秩父でも昨年はオープンできなかった芝桜の丘も道の駅もオープンして

普通のスーパーでさえ人でごった返していたのです。

当店にも普段見えない方の来店が相次ぎ連休だなあという感じでした。

 

外には出ないでいると丁度良い気温で過ごせますが、外では暑いくらいで

珈琲豆を求めてくる気温ではありません。

それでも途切れなく来店者があり、車は他県ナンバーのものが多く大阪やら

東北やらということもあります。

連休の初めはいつもの常連さんが混まないうちにという方が多く来店

されていましたが、どなたもいろいろ話したいけど忙しいという様子で

これからの連休予定が皆さん色々あったようです。

 

そんな中、私は全く変わりなく同じことを繰り返し夜は相変わらず

10Kのランニングをするだけです。

 

ただ、どうしても言いたいというか伝えたいのはこの前も書いた

花の香りです。

 

躑躅という花に思い出が特に強いわけでもなく、好きなにおいとか

好きな花というわけではないのですが、一番の思い出というと

ワープロが出始めの頃ある方の書いた本の原稿をリライトと活字に

するという仕事を頼まれたときにその方の原稿が幼い時の思い出

のことを書かれていたのですが、躑躅の花がモチーフになっていた

こととそれが唐突な終わり方でこんなので本にできるのかと不思議に

思ったのであわせて記憶に強く残っているのかもという経験があります。

 

私の心配をよそにその唐突な終わり方のその方の幼少期の記憶は

実際本になり書店で手に取りそのままの終わり方だったのを確認した

記憶があります。

 

幼少期の記憶とは戦時中の体験でその手の話は実際に私の父や母など

から聞いていたし、学校などでも授業で戦争体験を聞くとか年寄から

昔の話を聞くものはありました。つまりは大概の情報は既出でどれも

変わったことはありません。その方の話も群馬の方に疎開して航空燃料に

するのに松の根を掘らされたり食糧難で躑躅の花を食べるというものです。

 

現代でも花は食料になるというのは普通の話で、なにも珍しくもなく、

藤の花など私が鉄道時代に支配人をした食事処でも出しました。

躑躅の有名な群馬の公園なども何度も行っています。そんな毎年咲く

珍しくもない花ですが、昨日の夜はまたその横を通るとはっとさせられる

鮮烈な刺激を受けたのです。これは仏教でいう大悟小梧と同じなのです。

 

ただ毎日同じことをしているようですが、花の香りにはっとした悟りのような

境地にさせられるそんな体験があるのでまさにこのランニングこそが毎日焼く

珈琲の源泉であり、季節のブレンドのもとでもあるし、私が焼く珈琲の味の

源泉だと思っています。

 

季節を感じと簡単に言いますが、このような一瞬のためといっていいという

説明を度々していますが、忙しい現代人に季節を感じるとはスーパーの店先の

果物や野菜の入れ替わりだったり朝のワイドショーの挨拶の変化くらいで

現実に肌でその変化とか身に感じて生きている方はお百姓さんや漁師さんや

お天気キャスターでもそう肌感覚で感じている人は少ないのです。

 

しかし、化学物質で660もの種類が検出されている珈琲はその複雑な魅力は

香りでも実に豊かな物語を含んでおり、さわやかな香りや南国で受けていた

風を感じたり、フルーツや花の香りといったスペシャルティの特徴とされる

香りも皆ジャングルの周りの花や植物や動物の息づきを伝えるかのようであり、

豊かな恵みの中で育ったものであることを想像させるのです。

 

昨日の夜の押堀川からキヤノンへ至るところで感じたことは既にこの界隈で

アカシアが咲き、躑躅が薫ることは知っていてのことであり、それでも躑躅の

横を通ったらああ躑躅の香りだと思うのではなく、一瞬に大悟と小悟を得たような

恋の誘いとその醍醐味とを一瞬に味わったような人がなぜ恋に落ち、人とのかかわりを

築いていくのかということを一瞬ですべて見せられたような感覚に陥ったのです。

 

だからと言ってこの花に強い思い入れとか香りに強い思い入れが生まれている

ということではないです。

昼間の公園で嗅げばああ躑躅が咲いているなの意識しか浮かばないのです。

この毎日のランニングと珈琲と季節は阿闍梨が千日行を行うのと同じです。

躑躅の花の香りだけでなく、飲み屋の電飾看板や切れた街灯にすらときには

そんな瞬間を感じさせられます。まさに仏教僧の大悟小悟の世界です。

 

チェーン店のマニュアルにはないもの。それでは再現できないものも

あるのです。

 

そんな話を聞きたくて来店された方々に今年も試飲は自粛中で予約のみと

なり遠くからお越しの方もお断りしており早く元に戻ってという思いは

募るのでした。

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アカシアと竹林の中の木立

2021年05月06日 10時52分33秒 | 珈琲

ここの所何回かブラジルのブルボンをくれという注文を受けました。

このように国と木の種類まで指定されることもままありますが、

どのようにしてその豆にたどり着いたのかというのも併せて聞くようにして

います。

 

というのはとんでもない勘違いでその豆を買いたいといっていることもままあり、

とはいえそこまで指定しているのに違う豆を売るわけにも無理にそのわけに

立ち入るのも次の注文に関係しますから本来ならあまり立ち入るべきことでは

ありません。

しかし、どうしてもなぜそれなのかというのを聞いてしまうのが私で、

それはこうですよといらぬ解説をして相手に不快感を与えてしまうのも私です。

 

まあそれはどうしても正したいという自分のたどり着いた境地とか

珈琲の真実を知ってもらいたいということから出てしまうのですが、

中には本来立ち入るべきことではないこともあるのは承知しています。

 

特に自分でその味について知識がある場合それがたとえどこか間違った焼き方の

豆屋が焼いたものだったにしろ、正しいブルボンや日陰干しといった製法やら

その味を示してレクチャアするなどお客様からしたら迷惑なだけな時もあります。

 

というのも私自身ブルボンばかりを飲んでいた時代があり、それはなぜかと言えば

少し高いブルボンはサントスより柔らかくストレートでぐびぐび飲むのに

適していたからです。

 

その前はアメリンカンコーヒーの代表ということでMJBの緑の缶を愛用したときも

ありました。

どれも満足いかなくなりやめたのですが、結論としては同じように自分で

納得するという行動は重要なのかもしれません。インスタントのコーヒーに

飽きてレギュラーで淹れだしてそのドリップ技術や各種ドリッパー、ペーパーの

性能を比べ、各種機器を比べ、やがて豆の種類や味を比べ、どこかにある自分の

豆を見つけて満足いかなくて自分で焼いてみてそういうことだったのかと

体験するのは必要な時間かといわれれば大分省略してあげられるかもしれないと

いうのが私のつい出てしまう余計な豆への説明なのでしょう。

 

まあなんの説明もなくすいすい飲めてしまったでいいことなのかもしれません。

今月のタンザニアみたいについ大手の豆に触発されてああいう豆が欲しい

などといわれるとつい私のタンザニアはこうですよというのをやってしまう

のでした。

 

ゴールデンウィーク中も珍しい豆はないかとか色々な注文がありましたが

なかには改めて何々に気が付いたとかはじめて花の香りとかフルーツの味と

いうのを感じたとおっしゃる方もいて今ではあまり会話の機会もないのに

どうしても口にしたいという思いでわざわざ感想を届けてくれる方もいました。

 

珈琲を愛するものの絆を築けたようなコロナで縮こまり縮小と閉塞感一杯の

世界に突破口を開けるような快挙に思いまた心して焼こうと誓うのでした。

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今月のブレンドは

2021年05月02日 13時00分11秒 | 珈琲

今月のブレンドは『颯々』です。

 

さわやかな今時の風をイメージてブレンドしました。

 

色々な花が咲き、山には新緑が芽吹き、とにかく一番一年で

さわやかで気持ちのいい季節です。

 

そんな今吹き渡る風はとても気持ちよく森を歩くのを想像しただけで

わくわくとしたものになります。

 

先日もいつも走る公園をただ歩いてみる機会があり、あたらめて思うこともありました。

というのは今の時期夜走っていると暑さからヘロヘロになったときに街のあちこちで

咲く花の横を通りその香りに体が蘇生するような感じになることがあるのです。

 

それは言葉では表せないほど気持ちの良い感じになることもあります。

 

なかでもこのブログで何度も紹介する伝承館のテイカカズラですが、これは

もう脳内麻薬があふれるような気持ちよさなのです。

 

と色々な人に説明していますが、共感を得たことはなく、散歩するから今度

行ってみる程度の返答です。

 

先日いつもの公園を走るのでなく歩いてみてその答えが解ったような気が

しました。というのは、今なら普通に咲いている躑躅の植え込みですが

これがどこでもありいい香りです。この公園で春ごろ走っているとヒュウガミズキ

とか春一番早く咲く花々の姿に癒されたり、野鳥の鳴き声に励まされたりしますが、

これらのことはやってみてわかる事であり、歩いてこれらの花や鳥の声を聴いても

花が咲いているや鳥が鳴いているという認識だけで別に花の姿に元気づけられたり

鳥の鳴き声に励まされたりとは感じないのです。

 

でも私は走っていつもそう感じるので躑躅の香りやツツピーという鳴き声は

ただの臭いや音以上なのです。

 

これは全てのことにいえることで、普段の食事もお米のうまさや食材の

うまささらに職人の技術が重なることで生まれる食感などただの体験も

生という根本が違ってくるとまた違った世界になるのです。

 

何かを知りある次元を経てまた次のステージに上がるような体験は誰でも

しているはずであたりまえのことや誰もが知っていることでも実はこうだった

ということはあるのです。

 

珈琲でもそんな連続でそれらを繰り返して実はこうだったというものを知れば

また違う解釈から生まれる世界もあるのです。

 

そんなわけで当店は季節のブレンドを毎月だしているのですが、

珈琲の世界をアップグレードしていただければ幸いです。

 

 

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