今年に入って本を読む時間もなく、あわただしくしていて
何にもしない時間とか何かのために何々をするということ
のない時間が全くありませんでした。
そして、長年購読していた宅配される新聞でさえやめて
しまい、とにかく活字を読むことがなかったのです。
今月に入り、やっとスキーにも行けて、その時にもしかしたら
時間があり読み物がほしくなるかもと鞄に入れたのがこの
本でした。
別に特に読みたかった本でもなく、うちにあったからで
それもうちのものが新聞の書評から選んだものなので
自分向きかどうかなんてわかりません。
ただ、薄くて文庫本で鞄に入ったから持ってきたというもの
でした。
『純喫茶トルンカ』
読んでみてあまりの内容の無さに愕然として歯医者さんの
待合で読むにしてもあまりに先を読みたい内容でもないことに
がっかりしました。
文体といい内容といいこれは現代の小説なのかと訝り、あまりに
苔むした誰に向けた本なのかと考えてしまいました。
それでホテルの食後にこの本を読み三分の二を読んでいたので、
最後まで読んでおこうとついこの間帳簿整理など諸々を片付けた折
そのやりかけたことややることリストのついでに読み終えました。
そして読んだからと言って何か得た感じもしないし、時代の感覚を
再認識したということも、考えに新たな視点を得たということも
なく、暇つぶしにしてもどうなのかという感じのまま終わりました。
そもそもこの本は昭和という時代とかレトロとか懐かしむものというより
取り残した物、普段の生活から零れ落ちてそのままのものとか
それを振り返りふと手に取ってみたということであり、新しさや
懐古的なものをどうこうするのでなく、普段振り落してしまったことを
再度また手に取っただけなのではと思いました。
そんなものに触れるには今は流行っている谷中とか千駄木とか
根津とか下町や商店街などの路地に持ってきたのでしょう。
多くの人の関心とどこか懐かしいと人を引き寄せ人が集まる地
でありながら、何も特別なこともなく古い町並みと路地と寺があり
人々の普通の生活があるところにもっと人は何かを求めてこの本を
とるのでしょうか。
それとも自分の隠れ家の覚書としてこの本を取るのでしょうか。
夏目漱石が今も繰り返し人々に読まれたり、村上春樹の本が
読まれたりするのとは別の理由でこんな本を必要とする人も
いるのかと思う一冊です。