上野の東京都美術館にて『藤田嗣治展』をみました。
平日の午後遅くなのに未だに券売り場と入場に行列があるのがびっくりです。
年々、この美術館への入場というのが苦痛になる美術鑑賞人口の増加です。
特にここ数年はかつての美術展というのが企画と展示品のすばらしいものが
増え、今まで見たことのない絵とか今見とかないともう見れないというような
作品ばかりが来ている印象です。
そんなそそる言葉と魅力的な絵を一目見たいという思いは常にしているのですが、
しばらく美術展には足が遠のいていました。
今回も藤田嗣治ということで日本中に作品があり、珍しさもなく奇跡の白という技法にも
今更珍しさも感じずもう見た作家の気がしていました。
ただ、今回の美術展では今までの浮ついた日本美術を安売りした作家というイメージ
から自分の居場所を探して世界中をさまよった歴史と祖国と裏切られ、疎外され
翻弄されて生きてきたそんな生きざまが一生という事で取り上げられたのは初めて
かもしれません。テレビでは最晩年の本人の声などが公開されそれが決め手となり
今回の美術展に訪れることになりました。
世界のトップで有名流行画家となり、社交界でも有名人となるなど本来なら達成した
人として日本でも認められるはずがまるで受け入れられず、おもねるかのように
従軍画家となり、大きな大作を連発しています。これについては大方プロバカンダに
止まることなく自分で感じた戦争を描き切ったと評されていると受け止めていました。
しかし、戦争責任を問われるようになり、逃げだしまた海外へ放浪し、作風も変え
居場所を探すかのような変遷を見せていたというのは今回知った事であり、日本国内も
沖縄から東北と放浪しアトリエも転々としていたという事も知り、一生居場所を探し
自分を見つけようと模索し続けていたようなもがくさまが作風の変遷などから感じずに
いられませんでした。その時代ごとに書かれた自画像からもそんな自分をみつけて
ほしいという声が聞こえて来るようでした。時には宗教に救いを求め宗教画の登場人物に
なったり、祭りを描いた大壁画を残したりそれらが後世に残ることを意識して自分も
その一部にしておいた画家の孤独が滲みます。抱いた猫や背後に描いたかつて教えを受けた
肖像画とか父の肖像など全てが心の奥渕からの苦悩する叫びが時を超えて聞こえて来るかの
ようです。それでも日本の美術感とか日本の芸術観を完璧に抑えてはいないやはり浮ついた
本人の特質は隠しようもなく、すべての技法と表現方法を確立していても日本の芸術家が
どこかに完璧とか完成を望まない隙を作るのに対して自分は全て知ってしまったからこう
浮ついていられるという形になっている点です。見るものに迫る迫力とか超越した人を虜に
する魅力とかさらけ出した本性やあぶりだした野生など人間本質より文化としての自分が
すべてとすることで表した人であり、それをやがて全世界に見つけてみるように行動し
結局個人的な信仰に逃げていったそんな人生を追体験できる展示となっていて大河ドラマを
見たような第一次大戦と第二次大戦と戦後と目まぐるしい歴史を感じる貴重な体験をさせて
もらった展示でした。