昨日は朝から激しい雨でしたが夕方にはやみいつものコースを走ることができました。
昨日は朝から激しい雨でしたが夕方にはやみいつものコースを走ることができました。
それでも様々な事件はあり色々の因果律をおもうのでした。
昨日の夜ランニングにでると営業を始めた飲み屋の明かりとそぞろ歩く
酔客が目立ち、開いてる店も今までになく人であふれていました。
ニュースでは先週を上回る感染者だと報じ、桜の名所に人があふれる映像も
見られます。既にリバウンドが始まっているかのような報道の中、今朝は
聖火リレーがスタートしたと報じられましたが、そのよそよそしさととって
付けたような復興ということで福島スタートという虚構も同感も共感もない
映像となっていました。
なぜあの時中止にしなかったのかとならないといいのですが。
まあ海外からの観客を諦め、それでもやる意味があるのかとつくづく思うのでした。
前にも書いたようにオリンピック需要とは主に道路や施設の建設需要でそれらは
もう完成しており、恩恵は受けているのです。あとはインバウンド需要ですが、それは
海外からの観客でそれらを受け入れないことになった以上、あるのは感染の拡大の
危険しかないのです。それでもやるのかというのはもはやIOCのマフィアのような
拝金主義のためとしか思えません。
今の自由時間はアマゾンビデオでは『ミスターロボット』で、読書時間は文芸春秋でした。
その文藝春秋は芥川賞発表の刊で買われたものですが、実はもうその目的というか最近の
受賞作に魅力はなく読む気もなかったのですが、家人がおうち時間充実にと買ってきたもので
久しぶりに受賞作を読むことになりました。
宇佐見りん『推し、燃ゆ』です。
ニュースで受賞の報を聞いた時にはその名前から興味があったのですが、直ぐに今までの経験上
やはりいいかと思ったのです。そして、実際に読んでみてもそれは変わりませんでした。
アイドルを支持し貢ぐことで生活が成り立つ高校生がそのアイドルが引退してしまうことになり
陥る顛末と自己発見という物語としてはよくあるものです。ただ、アイドルを推すという気持ちとか
それにのみ生きる意味を見出すという特殊ケースが共感を生むかというとそれは甚だ無理なものと
いうのが現実ではないでしょうか。
それに推しを研究し分析した結果をブログに書き一定の読者も得てガチ勢と認定も得るに至り、その
成功があれば現実の高校生活や勉学もその経験で乗りきれるはずと思えてしまいます。
まあしかし、それがアイドルがファンを殴り炎上してアイドルもやめてしまうという喪失の中、
主人公が陥る境地がテーマなわけで推しにより成功してしまったら物語が成り立たないのです。
まあそんな基本的欠陥を含んだ構成で喪失からの再生というのはよくあるテーマであるし、
自己修復か自己再生、自己発見となれば文学的共感とか感動とかになるわけです。
選者の人の評でも齢も環境も違い共感出来ずそれでもこの作に票が集まったというのは
この構図という構成が王道であり、票を入れやすかったのかというくらいの読後感に
なってしまいました。
時代はコロナ禍での生活であり、その新しい生活様式が言われる中、人類が考えるべき指向性
とか新しい時代に新しい虚構が必要な気がしました。
現実には先週書いたようにこの一週間と一年を比べてやり遂げる達成感とその後に現れる
完ぺきに戻ったものがもたらす物足りない感じとかを感じてつまりこの自粛生活も晴れて
解除になってもそれは期待し待ち焦がれた割に訪れてみるとあまりに普通なのだろうという
気もし始めています。
つまり、今の新様式とか新しいコロナ禍での生活がもたらしたものやこれからもたらすものは
ぜひ今書いておかなくてはいけないことだという気が余計しました。
人類が選択した脱炭素社会で私たちが思っている以上にこの後環境は激変してくるのではと
思います。それはコロナで経験した人と接しない生活とか密にならない生き方とかそれでも地域と
人が連携して生きていく術とかを模索する時でそれは携帯電話がただの電話からスマホになり
ネットと生活、キャッシュレス社会を加速しているように今後は車がスマホと一体となり、
ガソリンから電気となり、移動と仕事の概念も変えていくと思われます。そんな今だから書けること
やテーマが取り上げられていない不満ばかりが残る芥川賞でした。
毎年多くの本が出版され、その年の代表的な本と過去の時代を象徴する本が紹介されます。
それらは確かに知の最前線であり、時代を表し人類の可能性を感じさせます。特にNHKでは
欲望の哲学史のマルクス・ガブリエルや正義の話をしようのマイケル・サンデル、ホモゼウスの
ユヴァル・ノア・ハラリと時代の最先端を感じさせる特集をしてきました。ですが、昨年の
宮沢賢治の銀河への旅あたりでここまでやるのかという感じになってきてしまい、実際に
作品を読み味わいそれなりの感想を持っている人のイメージを叩き壊すような暴露的な
作品の背景話は必要なのかという気もしていた矢先に、このカラマーゾフの兄弟も取り上げられました。
ドストエフスキーの研究者としては第一人者として知られる亀山郁夫教授という完ぺきな布陣で
100分で名著で取り上げられました。私が人類最高傑作と思う小説であり、今まで何度となく読み
人生の折に触れ思考的影響も感じたりした本です。亀山郁夫さんは新訳を出したり関係本出版も多く、
ドストエフスキーで出てくるのもやはりなあという感じですが、ネットでは彼の新訳は非常に評判が
悪く、いかにひどいかという本もよく目にします。有名作家が作品が好きで新訳を出すというのは
よくあるケースですると名訳を汚すと批判をする人はよくいます。ネットでその手の批判は常ですが、
それが多いとやはりそれだけ注目されているという見方もできます。
しかし、今回のこのシリーズはカラマーゾフの兄弟をそのようなテーマで読み解くべきものなのか、それ
より実際の作品としての味わいとか読んだ醍醐味とかをもっと語り合いたいというのが私の感想です。
何かと正解とか作者が言いたかったことはこういう時代背景ゆえに起きたというテーマ解説などこの間の
宮沢賢治の映像詩の番組と同じでやるべきことなのかとまた強く思ったのです。
今回語られたテーマやドストエフスキーの生い立ちやら人生背景などは皆既知のことであり、目新しい
ことはなく、逆にそこから入ってしまったら作品の良さや物語の醍醐味がそがれることは間違いありません。
つまり、この番組を見た人で気に入ってこの本を読んでみようと思う人はいないと思います。つまりは
本を読んでもらう番組ではなく、逆に言えば読ませないようにしているといってもよく、ネタ晴らしして
本の奥深さとか文芸体験を遠ざけていると感じます。
なんでそんなことをするのだろうというくらい気の利きすぎる解説と構造まで丁寧にテーマ解説されると
ああまたやってると思わず心の中で叫んでいるのでした。本を読まないように仕向けている国があるという
不思議な感じを受けます。なぜそう思うかといえば司会の伊集院は取り上げる本をことごとく読んでいないと
いうありえない配置がそもそもこの番組は本をより知ろうとか深く知ろうというものではないと考えてしまう
読ませないようにしている番組と思えてしまうのです。
カラマーゾフ兄弟での魅力の一つとはアリョーシャの創造にあります。聖職者であり、一人この兄弟の中にあり
清廉であり、父の影響のない性格の良さという存在がこの兄弟のアクセントになっていて生まれながらにして
何の苦労もなく何の援助も保証も必要なく人生を一人で生きていけるという完ぺきな独立者であるという個性は
この兄弟の中あまりに浮世離れしていて、ふたりの兄弟が生きるためにお金や父親との確執やら同じ女を取り合ったり
果ては殺人事件まで起きて裁判でその異常な親子間があらわになっていく中サスペンスのような実際の犯人は誰なのかと
読者は気をもみ嫌らしいスメルジャコフや非人間的行為やら人間の汚い面を見させられる反面アリョーシャだけは
同じ兄弟でもまるで別というところに読者は騙されてどんどんと物語に引き込まれていくのです。
それを作者のおいたちと人生と昔からあるオイディプス王の父殺しのテーマを引き合いにしてこの物語を
見てしまったらアリョーシャの存在価値に思いが及ばないのです。アリョーシャの存在意義やそんな人がいるかとか
そんな宗教だったかと神を思ったりすることがこの一つのテーマでもあり、社会主義の台頭と予測の中で
小説が先に出ていることを考えたりする遡行的思考とか楽しみはこの100分では足りないと思います。
その100分で語ってしまいもう読んだことにしてしまうと永遠にこの本の面白さもすごさも素晴らしさも知らず
人類最高の小説を読むこともないというもったいないことになってしまいます。ぜひこの番組を見た人も小説は
読んでみてこそです。読むことをお勧めします。100分で語られない魅力を絶対見つけられます。
よく観光地で記念碑があるとそこに緯度と経度が記されていることがあります。
測候所がなくなりましたがその地にはいまだ百葉箱と降雨計とか何かのアンテナとか
装置がある一方何のためか経度と緯度の記された柱もあります。こんなのを見ても誰も
地球上の自分の位置を気にしたり、地球の大きさを気にしたりしないでしょう。それは
我々が誰でも義務教育として最低限の教育でもそれらの知識を教わり太陽の周りを周る
第三惑星に住んでいるという事を知っているからで、物の大きさを測ったり木の高さを
測る方法を知っているからでしょう。地図に入っている縦と横の線は経度と緯度であり
その数値で地球上の位置もあらわされると知っているからです。
しかし、実際に中学生や高校生にその意味や数値の出し方を質問したとしてどれだけの答えが
返ってくるでしょうか。
最近テレビで見た東海道にある古い家からお宝を見せてもらうという番組で伊能忠敬以前の
地図というのを見ましたが、その出来はかつてテレビなどでやる伊能忠敬以前の地図からすると
かなりの精度でそれが伊能忠敬の60年ほど前といいますから如何に我々が正確な情報に接して
おらず教育としても甚だ怪しい知識でしかこの基礎科学部分を理解していないことを知るのです。
私が一番最初に伊能忠敬の事を知るのは歴史の本からでなく、道徳の本からです。この道徳の授業
はテストとかなく一週間に一回ぐらいしかなかったと思いますが、とても心に残る話があったように
思います。走れメロスとか鑑真が日本を目指した話とか陸上でペースメーカーを命じられた生徒が
腐らずに練習に専念して結局レース本番に優勝してしまう話など今でも思い出します。そんな中
伊能忠敬が出てきたのは自分は50歳なのに31歳の人に弟子入りしたという事で登場するのです。
彼が弟子入りしたのは天文方という幕府の役人です。そして道徳の本では師としてもう教えることは
ありませんと言われて伊能忠敬はその獲得した技術で測量の旅に出るというものでした。
多くの日本人が理解する伊能忠敬は日本地図を作った人という事ですが、幕府に収めた地図にしろ
伊能家にあった地図にしろみんな火災や関東大震災で焼失し彼の偉業が改めて評価されるようになった
のは最近と言ってもいいかもしれません。しかし、その理解が未だにテレビ番組で紹介される偉業に
しても初めて地図を測量して作ったと言った理解に止まり、日本の教育のお粗末さを露呈していて
このままでは確かに国際競争力も衰えてしまうわけだと感じるのです。つまり、彼が測量したいと
思ったのは蝦夷地まで行って測れば地球の大きさが解ると思ったからなのにそれを教えずにこの人の
偉大さと科学に対する興味を伝えることもできないわけです。
世界では伊能忠敬が生まれるより10年早い1735年に地球の経線と赤道線を測る測量隊が派遣されています。
この測量は天文観測によるデーターが示す地球の形状が極方向に長いのではないかという学説上の争いに
終止符を打つべく学術調査として派遣されるのですが、使命を果たすまでに命を落とす人が続々現れ簡単に
終わらず、その体験記が出版されると世界にめがむく結果になり色々な影響を与えたのです。
私もかつて深夜特急という体験記を読みそんな冒険をしてみたいという事を夢見たりしました。また当然に
社会に出る前に若者の特権である自分探しの旅というものに出て世界中を歩いてみることもするものと
思っていました。しかし、実際には進路指導の先生の言うがままに普通に就職して淡々と社会人生活に入り
海外をまたにかけて活躍するビジネスマンでもなく普通の日本人的な世界観に止まるわけですが、テレビなどで
憧れたヒッチハイクでユーラシア大陸を旅する猿岩石の番組が人気になったりとかつて私がやろうとした旅を
実際にやっている人達を見ると何かしらやり残したことのように感じるのも確かです。
今回読んだ『珍夜特急』というのはインドからポルトガルのロカ岬を目指す旅をバイクで果たした旅行記なのです。
現在の世の中ではできないこれまた良き昔のお話となってしまった世界情勢とか色々と考えさせる本でした。
そもそもロカ岬にしたところにもしかしたらこの人も宮本輝の本を読んでロカ岬を最終目的地にしたのかと
予測したのですが、全体的な知識とか文化的欲求とかそもそもそんな旅に何を求めていたのかという目的も
実に味わいもなくあやふやなものなのです。観光地など興味がないとばかりに名だたる名所をことごとくすっとばし
遺跡や観光名所などもたいした紹介もなく、美術館などゴッホ美術館とゲルニカとミュシャ美術館だけという
なんとももったいない行動なのです。
出てくる描写も荒野をただバイクで一日何百キロも走ったりとバイクで走る描写もただ何も起きなくて日本の
バイクの性能の良さをうかがわせるような旅でこんなトラブルも少なく良く行けたなあという物語です。
もう色々と経験もして旅行経験とか人生経験もしてしまうとまたこれを読んでも私が高校生でそんな海外放浪の
旅の本を読み漁っていたころに出会えばまた違った感想だったのは間違いありませんが、今となれば何もない
この本は現在ではこのようなことはできないしと考えると昔はよかったねとしかいえない本です。
せめて宮本輝の『草原の椅子』のように砂漠や原野に宇宙とのかかわりを見出したり、最古の文明の地など
今では入れない地に行けたのに何の未練もなく立ち寄りもしないなど期待するには本人の資質に問題あり
なのではという気もしたのです。それは世界というものに過度に期待する私の方が問題なのかという気も
しないではありませんが登場する多彩な旅での出会いなどそれにつれコースを自由に変えそんな人に助けられたり
また違う人に出会ったりとそんなことを重視しての旅なのかという気もします。そんな旅もやはり若いうちに
やってみようという人が日本人にもこれからたくさん現れて日本や世界を変えていってくれることとを願います。
なにかと水分を摂れだのエアコン使えだのとおせっかいな近頃のニュース
ですが、そんな時に畑で死んでしまうお年寄りの気分とはどんなかと想像するに
何の悲しみもわずらわしさもなく日常の中逝ったという事でそれはそれで最高の
生き方なのではと思ってしまいます。
そんな真夏に読む小説として今読んでいるのが『ブッテンブローク家の人々』です。
ドイツの古い小説なので型ぐるしく矢鱈人が出てきてわけのわからない物語を想像
していました。よくご存じのように朝の連続テレビ小説になった『楡家の人々』は
この小説に触発されて北杜夫が書いたというのは有名な話で知られています。
そもそも北杜夫がドクトルマンボウ航海記を書いたのはトーマス・マンの墓をお詣り
するために当時渡航がそんな簡単でない中果たす方策としてマグロ調査船の船医を募集し
ていてそれに応募し、夢を果たしたのです。その資金の返済などのためにふざけて書いた
航海記がまさかの大ヒットとなり人気作家となるのですが、本人はあくまで文学的に
行動してマンの精神に触れたいという欲求がその航海をさせたという事を思うとそれほど
トーマス・マンという作家のすごさに触れてみたいと思うのも無理なからんところ。
私の中学時代ドクトルマンボウ航海記は教科書に載っていたと思います。面白いと思い
直ぐ本屋で買って読みました。同じように教科書に載っていた小説は坊ちゃんとか明治の
文豪のものです。当時、三島由紀夫とか川端康成が世界的注目を集めているときに多感な
少年には昆虫好きでユーモアのある作家というのはちょっと魅力的なおじさんであり、
大人への入り口を示してくれる存在でした。その作家が憧れて墓を見たいとまで思い
焦がれる作家とはとずっと気になっていたのがトーマス・マンです。
当時は時代とか世界情勢とか文化的進展とかまで知識が深くなく、西欧キリスト教文化にも
そんなに理解がない中、とにかく西欧の文化はすすんでいるとか先進国の小説としてどんな
世界なのかというものはあったもののずっと読まずに来た本でした。
ところが、昔から本棚にはあり、もしかしたら読んでいたのかも知れないと思うように
なったのは今読み出してほとんど知った物語だったのです。
まず、楡家の人々のようにいろんな人が出てきて騒がしく結局何が言いたいのかという
物より、自分の出自を記録しておくという事なのかという読んで面白く、また自分の精神背景史を
記すというテーマが重要なのかという感じもしてくるこういう物語は他にも多く読んでおり、
自分の自伝的小説というのはどの作家も書いています。
宮崎輝の流転の海シリーズみたいに人生の折々で読み継いだ本もあります。
皆作家としては私小説は残したい履歴書のようなもので書かずにはおかれないものなのでしょうか。
数年前イギリスでダウントンアビーが大ヒットしたのと同じでただ、歴史がずっと前の産業革命が
人々の生活も社会システムまで変えたころの話だという事です。
革命があり、貴族階級などが没落して新たな市民という階層が出来て社会を動かしていくその前夜の
話であり、ダウントンアビーも貴族社会がどんな社会かという興味よりその貴族の果たした役割とか
それが成立していたそのままを人々は愛したのであり、もちろん現在の法の下の平等、国民主権、基本的人権
と私有財産の保証など個人の自由と国家のありかたに何の不満も疑問もなく、より平等で先進的な国を目指して
いるのは間違いない事ながら、古き昔の人々の織り成す暮らしの豊かさとその事件の驚きのうねりをもう一度
体験してみたいという欲求がこういう物語の鑑賞にはひそんでいるのでしょう。
今の時代とは違うとかもう過去としてこれからは作り替えることができるけれどこれらは起こってしまった厳然として
ある事実であり、変えることも忘れることもなく、それは自分たちが受け入れて変えていかなくてはならない課題
そのものなのです。
しかし、当時の社会がどんなシステムなのかという事よりとかく誰々の結婚は財産目的で破綻したとか
本人は働き者で頭もいいという人の事業がことごとく失敗して行くさまや革命として貴族社会がなくなろうと
する様などどうしてそれが起き、どうしてそのようなことになったのかというシステムの変更についての考察は
実はおざなりなのです。当然私たちは歴史を見ており、産業革命で得たものとなくしたものもしっています。
ただ、こういう小説を読むうえで書かれていないシステムとか社会の習いというものをもっと知り理解すると
いう事も必要なのです。
それは唯、コンズルの娘の社交界でのうごめきとかゴシップは楽しいし、あの恋ばなはどうなったのかという
恋愛事情も愛のない結婚も面白いけれどその時に果たされた社会構造とか経済構造は果たして十分検証可能で
小説からも読み取れるのだろうかという事です。例えば北杜夫が夜と霧の隅でで芥川賞をとった夜と霧とは
フランクルのユダヤ人虐殺の歴史ですが、それがなぜどうしてどのように起きたかについてはちゃんと書かれて
いないのです。ユダヤ人はキリストを殺した人たちで、キリストを認めなかったからその後差別され定住の場所も
なくいつも差別されているというイメージしかありません。現在それがイスラエルという国を持ちそれも聖書に
書かれたのと同じところに住み、米のお墨付きまで付いているという地位も誰も疑問視しないし、なぜそうなった
のかどんな借りが彼らにあったのかと思わないでしょうか。日本を始め世界は政教分離で超自然の力から放たれ
政治の世界で動いていて神の意志や神の加護といったことで動いているのでなく宇宙の循環で動いているとその
公式や構造を示す方程式も原理も確立しており、キリストやモハメッドや仏陀とは別の次元で決していると
人々は思っているでしょう。しかし、ついこの間まで天皇陛下万歳といって大勢の人が死んでいった国としては
宗教が人々を殺す理由になっていることに注目しないわけにはいきません。
信教の自由と表現の自由が当たり前の現代でさえ未だに超自然の力が人々の心を支配し死んだあとのことを
理由にしていたり、現実には目にしない超自然の力をいまだに信じて生きている人は多いのです。
そういうものを改めて目に見えるものとしてくれるのがこういう昔の小説なのではないでしょうか。
ダウントンアビーもなぜドイツの暴走を許し戦争と混乱を当時起こしたのかというのは人々はときに
思い出し、現在に生かしていかなくてならないのです。
相手に有無を言わせず意のままにする唯一の手段として今だに軍備に多大な国力を注入するのは今も変わらずで
それが本当に人類のためになり、豊かな社会になっているのか実際に何百万もの死者をだしてしまうそういう
争いを起こそうというのか人々は今までの人類の成果としてこういう歴史小説にもっと見つめていかなくては
いけないでしょう。
もう4、5年前に買っておいた本でその頃目が悪くなりそのまましばらくほおっておいたものだが、
最近眼鏡を使用してこういう本も次々に読めるようになった。
昔読んだ本でプロレスが日本で始まるころ柔道界から木村政彦、相撲界から力道山が入り、それぞれ
活躍したというのは知っていた。ただ、当時の資料や本では柔道着を着ない柔道家はリングでは役に
立たなかったという紹介しかなかった。
そして、力道山がやくざに刺されるという事件は子供の頃に聞いた記憶がある。
しかし、直接プロレスをテレビで見たのは馬場が登場する頃で、力道山は戦後日本で敗戦で消沈する
日本人をリング上で空手チョップで白人をなぎ倒し当時の日本人を鼓舞し大人気となるというドキュメント的なもので
見ただけである。
木村政彦という人物も柔道はプロレスでは通用しなくてすぐやめてしまったというような情報しかなく、
力道山と戦い所謂セメントマッチで負けたというのはこの本で知ったことで、今ではそのビデオがネット
でもみられ木村政彦はずっとこの力道山に負けたことを生涯引きづり、弟子の岩釣を使って果たそうとしていた
という長い物語となっていた。実際岩釣のプロ入りはなく、計画は破綻し、名誉も回復することなく木村は
もうすでに亡くなっているのだが、依然柔道界で最高の存在とする人が多いという。
しかし、格闘技というのが戦後の街頭テレビに人が群がる現象とともに広がったプロレスから最近の総合格闘技と
いうものとスタイル、その性格も様変わりしており、その変遷の歴史をまざまざとみてきた身としては、
やはり今となってはどうでもいいことであり、武道とか日本の伝統としての柔道とかも戦後に禁止されたり、
また最近学校の授業でも取り入れられたりという流れから特殊なものとしての意識があるが、所詮
スポーツの柔道と戦場で発展した古流柔術は違うものであり、かつて空手の大山倍達が映画になり世界的人気と
なった後分裂してその強さの信憑性が薄れて人気が急落した凋落などもみているので今となってはその実力の
片々を見てもどれだけの物かという気もしてしまう。
しかし、伝説とか昔の武術というのは神格化されており、かなり高齢になった古武術の人が弟子に数人がかりで
立ち合いことごとく倒してしまうビデオなどが売られていたり、まだ知られていない武術の達人というジャンルは
かなり需要がある。
実際には道場と道場が交流試合などしなかったり、組手がそもそもない武術とか技を伝えるのに宗教用語や古語を
多用して矢鱈神格化して哲学的色合いの方が強いものにしていたり、実際に戦わないのだから優劣が解らない世界
となっている。しかし、この本に付き合ってみてそれでいいという気もしてきた。昔プロレスは全て台本があり、
インチキでありやらせというのがばらされ逆にノールールの総合格闘技で真の強さを決めるという売りのものが
クローズアップされたりしたが、それはもはや見世物やテレビで見せられる世界でなく唯の殺し合いになって
しまい、逆に厳重なポイント制とルールが導入された柔道の方が洗練されているとされてしまった。
そう考えるなら昔から殺し合い起源でない相撲など一番洗練されているかもしれない。体重性でもなく、軽量の者が
大男を投げ飛ばしてしまう技とかが見れる相撲こそ一番スポーツ的ではないか。それも公共放送で毎場所放送され
懸賞という現金が掛けられるという賭博要素もあるのに国技というお墨付きまで付いている。
この本に出てくる柔道の人達というのはみなプロレスに転向したり、挙句食うに困り自殺したりと日本で一二に
なるような選手でもその後の人生には苦労する展開で指導者としてその後の人生を安定的に過ごす人より食い詰めて
行く人が圧倒的に多い。日本では柔道人口は減少を続けているのに対して海外では盛んで指導者の需要も高い。
それなのに日本では柔道は国技として勝つことを求められている。身体能力や圧倒的な筋力や体格差で不利なのに
年々スタンドレスリング的なルールになり、見せることから柔道着もカラーとなったりと随分と様変わりしている。
この柔道着がなぜ今も前合わせの帯使用というスタイルなのが良く解らない。帯のない服にしてつなぎのような
服にすればいちいち乱れなくていい。相撲のまわしも褌にこだわらず持ち手の付いたスパッツにすれば競技人口も
増やせるだろう。ルールも変わるのだからスタイルも合理的に変遷すべきだ。
この本を読んだ後、ネットで力道山にダウンされる映像をみたら本に出てくるほどの熱戦ではなく、ただ一方的に
パンチされてノックダウンしただけに見えて木村のすごさとか強さは全然感じられない。本の中でグレイシーに勝った
日本人ということで力道山戦後もブラジルに渡り、グレイシーと再戦したという話がありその後の総合格闘技を先取りして
いたことはまったくしらなかった。ただ、この本の最後の方に弟子の岩釣がプロレス転向が失敗し、師匠の無念を晴らせず
その後、闇プロセスで勝利したという情報は語るべきことなのかという気もした。現代のようなコンプライアンスが
喧伝される世なら余計である。
しかし、プロレスなどは興行で昔からやくざがが絡む世界であり、今でもそうい人達抜きが可能なのかどうか
昨今吉本の芸人が闇営業でそういう人たちと交流があったというのが問題になっているが、普通にお金を払っている人の
中にそういう人がいたというのと積極的にかかわっていたかというのはどう判断するのだろうか。いずれにしろ今後も
コンプライアンスというスタイルはより強くなっていくだろう。そんな中岩釣が自身の後継として石井慧を後継者とみていたとか
ニュースでは米で日本のプロレスが人気だとか日本では格闘技がテレビのゴールデンタイムに流れることはなくなったのに
ファンは広がっているようで今後も目が離せない。
もうこう暑い日が続くとそろそろどこか涼しいところに行って
のんびりしたくなります。
ここのところのお休みの時に読んでいるのがこの本です。
ひさびさに寄った書店で見かけた本で、書評のところにビルゲイツ年間本と
いうコピーを見つけてパラパラ読んだら買ってしまったというものです。
というのも、そもそも遺伝子という学問はなかったということから始まり、
ずっと親から子供にその特質が受け継がれるのは精子の中にホムンクルスと
いう小型の人間が入っていてそれを母親は大きくしているというとんでもない
内容で、それを古代からずっと信じられていたという衝撃の話です。
そして文化花開く大航海時代にダーウィンの進化論がでて、世の中大騒ぎになり、
メンデルのそら豆の実験と確実な証拠と分析により格段の進化をとげるのですが、
これが全く世間には理解され世界を変えるに至らないという所が世の中の不思議な
ところで、作者の独特の辛口な皮肉口調は明らかに辛らつに文明批判のように
語られて行きます。
それは自身の出自に関係しているのかと考えたくなるような西洋列強の国々が
たどる道は耳に痛いような話です。日本も例外なく先進国に倣うようにその思想と
政策をまねるのですが、それが今世を騒がしている優生保護法下で行われた強制手術です。
遺伝子というと20世紀すべての暗号を読み解き、これからはそれを利用していけるという
明るいものとして我々は考えていました。その最たるものとしてiPs細胞の発見であり、
遺伝子利用の最先端を日本人が走っているという大変誇らしい分野に思われていますが、
これは実のところ何をする分野なのかということを我々に問う実に苦みと苦痛をともなう
読書体験となる本なのです。下巻が楽しみです。
今年のスキーと温泉の旅のお供です。
多くの人が新聞やラジオで推奨していて今更ながらに髙村薫がまた
新作を出したのだという思いで手に取った本です。実に読み出しは
昨年の九月です。これは読むのがつらいとかつまらないから進まないのでなく
もったいなくて大事に大事に自分の一番の時間に取っておいたものだから
スキーの温泉宿で一人でテレビもつけず読み継いだのです。
そして、物語はよいよ震災という未曽有の事件に遭遇し、主人公の脳細胞にも
病が襲うなど果たしてこの先の待ち受けるものはどんな結末になるのかという
これはドストエフスキーのカラマーゾフ的な話に感じられてきます。
日本に数多ある中山間地域に生きるお年寄りたちが何を考え何を思い、
生きているのか。それを綴るのに土を愛し、実験の様な農業をし、土と
ともに生き、そして最後はどこにでも起こりうることが起きると暗示して
いるかのような結末です。別にそれが起きても起きなくても終わりとは
こんなものだろうということで本当は終わりにしたくないのだけどという
作者のつぶやきが聞こえてきそうなペンの置き方でざわざわとした胸の
高鳴りがずっとこの山の中山間地の事を思い漂い日本人とはこういう
ものだなと思い出した時にはこれはやはりカラマーゾフ的だとまた
思います。
カラマーゾフのゾシマ長老の言葉と死が宗教と人の生と深く格調深く
物語をつつんだのと同じように別に仏教を真実のものとして深く信仰し
宗教に生きるでもなく、ただ生活としてお墓を守り、お盆の行事をし
死者を思うというありふれた日本人の宗教観がこの作品にはあり、
日本人のそういう宗教への思いとか祖先とかすべてが土とともに生きる
ということに結実しているさまをさりげなく描かれているもののこれは
正にカラマーゾフのゾシマ長老の語りと信仰の姿のように感じるのです。
今に生きるすべての日本人に大きな災害を経験し、未だ収まらない原発を
抱えながら、突如と襲う災害は各地に起きていつそれが身近なこととして
起こるかわからないそんな現状に平凡な日本人像を問えばこんな形という
ものがこの土の記となるのではないでしょうか。
御伴がこの本でした。
髙村薫は昔から読みついてきている作家で
それは直木賞を受賞する前からの冒険小説的な
時代からです。
それがいつしかミステリー作家から時代を切り取った
ような小説家になり、読む価値のある作家になりました。
その変化は『照柿』のころからでしょうか。
読者はその頃はまだミステリーを期待して
マークスの山からの登場する合田雄一郎の
活躍を読みたかったはずです。
しかし、作風の変化は確実に表れそれは
社会派と呼ばれるような事件を追いその裏側
に潜むものを顕にするかのようなものになり
それは時に人生や芸術についても語られ人の生
そのものに言及していることに気が付きます。
そんな意味で、まさにこの本も一人の老人の
人生が淡々と語られるもので、後期高齢者の
妻もなく一緒に住む家族もない山の中の棚田を
耕す生活を描くという至って地味で何の事件も
喜びもないかのようなものをそれをしったからと
いって何か人の人生に影響のあるものか疑問の
ものを扱っています。
いつしかミステリーから社会派作家に変わった
変化に伴い、語り調が老婆の語り部が講談のように
一息一息言葉を絞り出して行くかのようなリズムと
それをつなぐ接続詞として、否という接頭語か
逆説を意味する否定接続として使うはずが実は
ただのリズムをつなぐために言葉の癖のような
意味合いで否であったりああという詠嘆のことば
も接続詞としてくっつくのもみんな語り部の言葉
の調子として使われているようです。
これは『新リア王』から現れだした変化で、
その時は東北の地方のボスの事件を描くという
犯罪小説、警察小説的な面もありましたが、
新聞に毎朝連載される小説でありながら色々と
事件があり、なんと掲載中止になった衝撃的な
扱いでした。
これでファンも逃げ作家として終わりかと
思われましたが、今回の本を見ればますます快調
ということでしょう。
新リア王、太陽を曳く馬とその東北のボスの事件が
続いていたわけですが、今回は全くその人たちと
決別して奈良の山奥のマスコミに登場することのない
日本に多い中山間地域の話なのです。
残ったのはあの独特の老婆の講談調の語りで、しかし、
それでいったい何を書きたいのかとふと考えながら
ひとまず上巻を終えました。
この上巻で唯一の盛り上がりが孫との同居のシーン
ですが、ここで感じるのがドストエフスキーなどでも
自身の体験を素で語るシーンは読んでいて他のフレーズ
と違いはっきりと感じられたもので、それと同様のものを
この孫との再会のシーンの書かれ方にふとその自身の
体験を入れたような違いを感じ、あの老婆の語り調の
否の接続詞もしばらく消えるのです。
でも、いつか見たテレビで髙村薫が猫と暮らす一人暮らし
だというのを見たのを思い出し結婚もしてなかったんじゃあ
ないかと思うと思い違いかとも感じるのでした。
夏の読書はいつも文藝春秋で芥川賞受賞作を読むと
いうのが恒例になっています。
昔、旧軽の茜屋でその雑誌を見かけて以来夏は
文春が似合うと勝手に決めています。
それだけ古い喫茶店と趣のあるカウンターには
本を開きたくなる特別の空間です。
夏の避暑地と極上の小説なんて似合い過ぎている
組み合わせでしょう。
しかし、ここのところ受賞作には文句ばかり垂れています。
ところが今回の『影裏』は読んでいてほうという感じが
して時に言葉が変な時もあり違和感があったかと思うと
あれこれこういう話だったかという展開でやがて次々に
明かされる話と東北が舞台なので当然のごとく大震災と
津波に飲まれる話にもなります。
でも、それが自然と釣りという入り口としてはべたな
ものから今風なLGBTの問題が出てきて釣りに出ていた男とも
そういうことで付き合っていたのかという逆噴射型の
珍しい訴え方ではあったのですが、そこまでして何を具現
してみたいのかというとそういうことだったのかというものが
ないまま終わりあの名言である小説って落ちがなくていいんだ
というのを思い出す物語です。
実際に多くの人が身じろぎもせず押し寄せる津波を
受けて流されただろうことが、あのペテン師は生きていると
平然と言いのけてしまう父親と曲折しているものの
それはそれでまぎれもないものとして印象に残りました。
そう受け取ってみたものの実はそういう話でいいんだよなと
確認してみなくてはいけない気になり、ネットで他の感想など
を読んでみると作品を読み込んだというより、自分は解説して
いるという姿勢の人ばかりで新人賞として受賞したテクニックに
ついて書いているようなものばかりが出てきます。
誰もこれを楽しんだとかこう楽しめたという人はまれで
こう書いたらいいんだよという上から目線にそんなの
読みたくないことを先に気づけと言いたくなります。
最近はカフェなどでわざとカバーを外して小説読んでる
という仕草をする人も多くなってるんだとか小説の読み方も
時代とともに見せびらかす人までいるのかとびっくりします。
それも茜屋のカウンターならいいかな。