かって、現場管理段階にいた頃、「安全推進委員会」というのがあって、そこで現場の安全について
私の考えていることを話したことがあったのですが、それが記録されたものが手元にありましたので、
当時の思い出としてアップしてみました。
安全は大事だ。なぜ安全が大事なのか、私なりの安全に対する考え方を述べてみたいと思います。
安全は我々の基本である。事業を行う上でもその基本となるものである。
なぜ基本かというと、我々は職場で仕事をしているが、みんな家庭を持っているわけで、家庭が安定していないと
なかなか仕事にも打ち込めないものだ。例えば、子供の喘息がひどかったり、あるいは子供がケガをしたというだけでも、
ずいぶん気がかりなものだ。
仕事中は少し忘れることもあるが、ふっと気になるものだ。他人にはわからないけれども、自分自身にとって
そういうことを少なくしておかないと結局自分がつらいことになる。
職場環境というものは、個人のそういうものに殆ど関係なく、またまわりの人々にもそういうことはわからない。
自分一人が悩んだりする。
ところで、我々は何のために生きているかについてここで言及するつもりはないが、
われわれは、単に給料をもらって生活を支えているだけではないでしょう。生活するためには収入は必要だが、
生活するための必要経費よりも、いろんな楽しみや、自分の趣味だとか文化活動というような要素にその対象が
向けられているように思う。(中略)
つまりこの生活基盤が確保され、安定しているという前提の上でさらに自己の目的に対して満足感を求めている
ということではないか。100%でないにしても、妥協があるにしても何かよりよくしたい、会社でも充実したい・・、
そしてうまく行けばうれしい。
職場とは、生活基盤に支えられ、なおかつ知的欲求、人間の知的活動を充足する場でもある。
いろんな人と話をしたり、いろんな新しい仕事に取り組んだり、未知の困難を克服したり・・・
そういう時に喜びを感じながら成長して行く。この繰り返しであると思う。
これが我々の基盤であり、そのようにしてゆくためには、「安全」がその基本になければならない。
安全が阻害されると、しかもそれが極度に悪い方向に行くと家庭まで持ち込むことになる。
たとえば、ケガをしてしばらく職場を休むと、家庭の皆さんに心配をかける。職場の人々にも心配をかける。
そして自分が痛い目に合う。安全というものは本当に大切にしてゆかなければならないと思います。
職場を楽しく過ごせるようにとみんなが常に求めている訳ですが、楽しいということは面白く、うれしいということとは
ちょっと違うのではないかと思います。苦労してもたのしさはある。山登りなどはそうでしょう。重い荷物を背負って
汗を出して、なんでこんなことをするのかと思うけれども、楽しい。
そういう楽しい職場を求めて、それをお互いに作り上げて行く、それが結局家庭も含めた基盤につながって行く。
そういう職場をみんなで力を合わせて作り上げている。
安全というのは、これほど重要であるが、四六時中考えている訳ではない。考えていてもフッと忘れているものだ。
事故は結果としては、不注意、気の緩みなどとつねに判断される。無謀なことをして事故を起こしたという例は先ずないだろう。
みんな十分に手を尽くしてやっている。最近の事故事例でもほとんど不注意によるものが多い。
しかし、不注意は、「前」からわからない。常に結果論でそう整理されねばならないのだ。
では、どうやって不注意を回避するか。
ある言い方をすれば、それは、「思いやり」だと思う。仕事の上での思いやりとは何か?
この思いやりというのは、例えば、草花でも夏の暑い日にやや萎れかかっていれば、そっと日陰を作ってあげる。
そういう気持ちだと思う。
小さな赤ちゃんのいる家庭でのお母さんは、子どもは何をするかわからないから、お母さんは、何が起こっても
大丈夫なように配慮しているはずだ。たいていの母親はそうしている。 赤ちゃんがつかまり立ちする頃になると、
テーブルの上に湯呑や灰皿があれば、そっと手の届かないところに置き換えておく。あの気持である。
その配慮の気持ちであり、それが大切なのです。事故事例を見る時も、単に「あぁ」と思うだけでなく、
その事例を見た時に、一体どういうところに思いやりが欠けていたか? それが大事だ。
結果論ではいつも不注意と整理されるけれども起こる時点では、その不注意はわからない。 分からない不注意を如何に回避するか・・
といえば、それは「思いやり」「配慮」でないかと思うのです。
では、思いやり。配慮をどうやって持ち続けるか、それは心に余裕を持つことではないかと思う。
イライラしている時はダメであろう。家でもそうだ。気持ちがいらだっている時は柱にぶつかってみたり、足をつまづいたりする。
イライラしたり、心に余裕、ゆとりのない時、思いやりは出てこない。
しかし、お母さんは、子供に対してそういう思いやりは自然に出る。意識している場合も多いが、無意識のうちに
その気持ちがある。それはどこに起因するのかわからないが、我々は常に心に余裕を持つようにしたい。
しかし、四六時中心の余裕を持ち続けることは先ず不可能であろう。 どんな人でもなかなか難しいことだろう。
だから、出来るだけ意識的に心の余裕を持つよう思い起こし心がけることが大切だ。
修行僧と話をしたりすると、本当に心が洗われる思いがする。そういう経験をした人も多いと思います。
僧は、心の余裕、ゆとりがあるからだろうと思う。われわれは日常いろいろな仕事をし、追われた生活をしていて
どうもダメであり、僧と我々とは心のゆとりに差があると思います。
では、それはなぜか?
僧は、事にあたって物事の本質を常に考えているからではないかと思う。いろんなものに対して常にその本質を考え求めている。
本質を考えずに、その場しのぎでやっていると、それはちっとも心の肥やしにならないのではないかと最近思っています。
一見つまらなそうに見えても、その本質は何か?自分はいったい何なのか? この仕事やっていく場合、
その仕事の位置づけは何か?そして自分の存在は何か? こういう風に事にあたって、これを日ごろから
心がけて行くというふうに、そうすれば、心の余裕というか、先が見えるというか、全体の流れの中の自分というものが
分かってくるのではないか。それが、僧でいえば修行だろう。
我々の仕事は、修行のようにやっている訳ではなく、事業の流れの中でやっているから、その辺のことがつかみにくいけれども。
だから、意識的に心のゆとりを持つようにするが、その前段として、日常の仕事やそれ以外の活動の中で、
自分は一体何か、自分の存在、役割は何かを考えながら遂行することに通じるのではないだろうか。
それが結局積み重なって心の広がり、ゆとりというものが醸成されてゆくのではないかと考えられる。
だから、安全というのは、いろんな施策や安全週間などの注意喚起なども良いが、つまるところは自分の日常の
物事に対する心の置き方、対処の仕方かも知れないなと思っています。
そうはいっても 不慮の事故、災難もある。あるいはちょっとした気の緩みの時に、99%は十分意識していても、
後の1%で起きることもある。 事故の起きる確率は0ではない。しかし、いろんな角度から限りなく0に近づけるよう
努力することが大事だ。
安全施策ということだけでやるのではなく、日常の問題、自分たちの日常の行動そのものに安全に対する根本がある
ように感じている。
よくすごく危険なところは、むしろ安全だという経験がある。それは緊張して、いろんなところに目配り、気配り、配慮を
しているから相当危険なところでも安全にできる。そのような状態を持続するのは至難の業であるが、
そういう風に自分で仕向けて行くようにすることに他ならないのではないか。(後略)
注)安全推進委員会は、人にかかわる安全・・つまり事故は勿論ですが、業務上の事故、例えば設計、建設、保守業務上の
設備・サービス上の事故を含めた対策委員会です。
建設や保全工事が無ければ、サービス中断などの故障は殆どない・・言いかえれば、人為的ミスによるサービス事故がある
という事実が認められています。
*今、こうやって改めて見てみると、ちょっとわかりにくいところもあったりしますが、この当時、
“安全”について、全社挙げて取り組み課題だった頃、私が言いたかったことは、「安全施策」
ということが、
日常業務や活動と遊離したものであってはならない・・むしろ、日常の意識の置き方をキチットしておけば、
何も鳴り物入りで安全施策をどうのということもないのではないかと・・。
そのことが、業務を行う上での原点であり、安全にも共通することだ。 と考えていたのです。
安全地帯から
私の考えていることを話したことがあったのですが、それが記録されたものが手元にありましたので、
当時の思い出としてアップしてみました。
安全は大事だ。なぜ安全が大事なのか、私なりの安全に対する考え方を述べてみたいと思います。
安全は我々の基本である。事業を行う上でもその基本となるものである。
なぜ基本かというと、我々は職場で仕事をしているが、みんな家庭を持っているわけで、家庭が安定していないと
なかなか仕事にも打ち込めないものだ。例えば、子供の喘息がひどかったり、あるいは子供がケガをしたというだけでも、
ずいぶん気がかりなものだ。
仕事中は少し忘れることもあるが、ふっと気になるものだ。他人にはわからないけれども、自分自身にとって
そういうことを少なくしておかないと結局自分がつらいことになる。
職場環境というものは、個人のそういうものに殆ど関係なく、またまわりの人々にもそういうことはわからない。
自分一人が悩んだりする。
ところで、我々は何のために生きているかについてここで言及するつもりはないが、
われわれは、単に給料をもらって生活を支えているだけではないでしょう。生活するためには収入は必要だが、
生活するための必要経費よりも、いろんな楽しみや、自分の趣味だとか文化活動というような要素にその対象が
向けられているように思う。(中略)
つまりこの生活基盤が確保され、安定しているという前提の上でさらに自己の目的に対して満足感を求めている
ということではないか。100%でないにしても、妥協があるにしても何かよりよくしたい、会社でも充実したい・・、
そしてうまく行けばうれしい。
職場とは、生活基盤に支えられ、なおかつ知的欲求、人間の知的活動を充足する場でもある。
いろんな人と話をしたり、いろんな新しい仕事に取り組んだり、未知の困難を克服したり・・・
そういう時に喜びを感じながら成長して行く。この繰り返しであると思う。
これが我々の基盤であり、そのようにしてゆくためには、「安全」がその基本になければならない。
安全が阻害されると、しかもそれが極度に悪い方向に行くと家庭まで持ち込むことになる。
たとえば、ケガをしてしばらく職場を休むと、家庭の皆さんに心配をかける。職場の人々にも心配をかける。
そして自分が痛い目に合う。安全というものは本当に大切にしてゆかなければならないと思います。
職場を楽しく過ごせるようにとみんなが常に求めている訳ですが、楽しいということは面白く、うれしいということとは
ちょっと違うのではないかと思います。苦労してもたのしさはある。山登りなどはそうでしょう。重い荷物を背負って
汗を出して、なんでこんなことをするのかと思うけれども、楽しい。
そういう楽しい職場を求めて、それをお互いに作り上げて行く、それが結局家庭も含めた基盤につながって行く。
そういう職場をみんなで力を合わせて作り上げている。
安全というのは、これほど重要であるが、四六時中考えている訳ではない。考えていてもフッと忘れているものだ。
事故は結果としては、不注意、気の緩みなどとつねに判断される。無謀なことをして事故を起こしたという例は先ずないだろう。
みんな十分に手を尽くしてやっている。最近の事故事例でもほとんど不注意によるものが多い。
しかし、不注意は、「前」からわからない。常に結果論でそう整理されねばならないのだ。
では、どうやって不注意を回避するか。
ある言い方をすれば、それは、「思いやり」だと思う。仕事の上での思いやりとは何か?
この思いやりというのは、例えば、草花でも夏の暑い日にやや萎れかかっていれば、そっと日陰を作ってあげる。
そういう気持ちだと思う。
小さな赤ちゃんのいる家庭でのお母さんは、子どもは何をするかわからないから、お母さんは、何が起こっても
大丈夫なように配慮しているはずだ。たいていの母親はそうしている。 赤ちゃんがつかまり立ちする頃になると、
テーブルの上に湯呑や灰皿があれば、そっと手の届かないところに置き換えておく。あの気持である。
その配慮の気持ちであり、それが大切なのです。事故事例を見る時も、単に「あぁ」と思うだけでなく、
その事例を見た時に、一体どういうところに思いやりが欠けていたか? それが大事だ。
結果論ではいつも不注意と整理されるけれども起こる時点では、その不注意はわからない。 分からない不注意を如何に回避するか・・
といえば、それは「思いやり」「配慮」でないかと思うのです。
では、思いやり。配慮をどうやって持ち続けるか、それは心に余裕を持つことではないかと思う。
イライラしている時はダメであろう。家でもそうだ。気持ちがいらだっている時は柱にぶつかってみたり、足をつまづいたりする。
イライラしたり、心に余裕、ゆとりのない時、思いやりは出てこない。
しかし、お母さんは、子供に対してそういう思いやりは自然に出る。意識している場合も多いが、無意識のうちに
その気持ちがある。それはどこに起因するのかわからないが、我々は常に心に余裕を持つようにしたい。
しかし、四六時中心の余裕を持ち続けることは先ず不可能であろう。 どんな人でもなかなか難しいことだろう。
だから、出来るだけ意識的に心の余裕を持つよう思い起こし心がけることが大切だ。
修行僧と話をしたりすると、本当に心が洗われる思いがする。そういう経験をした人も多いと思います。
僧は、心の余裕、ゆとりがあるからだろうと思う。われわれは日常いろいろな仕事をし、追われた生活をしていて
どうもダメであり、僧と我々とは心のゆとりに差があると思います。
では、それはなぜか?
僧は、事にあたって物事の本質を常に考えているからではないかと思う。いろんなものに対して常にその本質を考え求めている。
本質を考えずに、その場しのぎでやっていると、それはちっとも心の肥やしにならないのではないかと最近思っています。
一見つまらなそうに見えても、その本質は何か?自分はいったい何なのか? この仕事やっていく場合、
その仕事の位置づけは何か?そして自分の存在は何か? こういう風に事にあたって、これを日ごろから
心がけて行くというふうに、そうすれば、心の余裕というか、先が見えるというか、全体の流れの中の自分というものが
分かってくるのではないか。それが、僧でいえば修行だろう。
我々の仕事は、修行のようにやっている訳ではなく、事業の流れの中でやっているから、その辺のことがつかみにくいけれども。
だから、意識的に心のゆとりを持つようにするが、その前段として、日常の仕事やそれ以外の活動の中で、
自分は一体何か、自分の存在、役割は何かを考えながら遂行することに通じるのではないだろうか。
それが結局積み重なって心の広がり、ゆとりというものが醸成されてゆくのではないかと考えられる。
だから、安全というのは、いろんな施策や安全週間などの注意喚起なども良いが、つまるところは自分の日常の
物事に対する心の置き方、対処の仕方かも知れないなと思っています。
そうはいっても 不慮の事故、災難もある。あるいはちょっとした気の緩みの時に、99%は十分意識していても、
後の1%で起きることもある。 事故の起きる確率は0ではない。しかし、いろんな角度から限りなく0に近づけるよう
努力することが大事だ。
安全施策ということだけでやるのではなく、日常の問題、自分たちの日常の行動そのものに安全に対する根本がある
ように感じている。
よくすごく危険なところは、むしろ安全だという経験がある。それは緊張して、いろんなところに目配り、気配り、配慮を
しているから相当危険なところでも安全にできる。そのような状態を持続するのは至難の業であるが、
そういう風に自分で仕向けて行くようにすることに他ならないのではないか。(後略)
注)安全推進委員会は、人にかかわる安全・・つまり事故は勿論ですが、業務上の事故、例えば設計、建設、保守業務上の
設備・サービス上の事故を含めた対策委員会です。
建設や保全工事が無ければ、サービス中断などの故障は殆どない・・言いかえれば、人為的ミスによるサービス事故がある
という事実が認められています。
*今、こうやって改めて見てみると、ちょっとわかりにくいところもあったりしますが、この当時、
“安全”について、全社挙げて取り組み課題だった頃、私が言いたかったことは、「安全施策」
ということが、
日常業務や活動と遊離したものであってはならない・・むしろ、日常の意識の置き方をキチットしておけば、
何も鳴り物入りで安全施策をどうのということもないのではないかと・・。
そのことが、業務を行う上での原点であり、安全にも共通することだ。 と考えていたのです。
安全地帯から