蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

川村カネトーアイヌ酋長の天才測量士   (mak)

2012-11-23 | 日々雑感、散策、旅行

ブログのコメンテイターのお一人であるあずさ氏のコメントに書かれていた川村カネトのことが、ふと気になり調べてみた。余り知られていない人だが、日本鉄道史に残る偉大な人の一人といっても過言でない人であることがわかりました。

旧三信鉄道により敷設された、JR飯田線・天竜峡~佐久間~三河川合の区間(S12開通)。中でも、天竜峡~佐久間 間は、地形的にとても厳しい天龍峡東岸に、線路が敷かれました。当初、この厳しい天龍峡に鉄道を敷設する、というとてつもない計画は、立案されたものの、線路敷設に向けての測量すら進みませんでした。

この状況を打破するために、北海道の鉄道測量で名を馳せたアイヌ人の天才測量士・川村カ子ト氏が招聘され、天竜峡~佐久間 間の測量を行いました。この区間の測量および、その後の敷設工事は、地形的な厳しさ故に困難を極めることとなりました。と言うか、カ子ト氏がいなかったら、天竜峡~佐久間 間の開通はなかった、と言うべきでしょう。彼は、JR飯田線の恩人です。
川村カネト



川村カネトは1893年北海道旭川市でアイヌの酋長の息子として生まれた。幼年時代蒸気機関車を目にし,心を打たれ鉄道の仕事に就くことを決意。学校を卒業後,測量人夫となり,アイヌという理由で給料を半分にされるなど多くの悔しさを味わいながらも勉強を重ね,測量技手の試験に合格。鉄道員札幌講習所を卒業し,1909年鉄道省の測量技師として北海道の鉄道建設の先頭に立った。
25年から天竜峡―三河川合間の測量のために本州に上陸し,山岳が天竜峡谷にせまる荒々しい地形,岩盤の崩れやすい中央構造線にそった未開の山間を命がけで測量。
樺太や朝鮮などで鉄道測量を手がけた後,旭川市の河村アイヌ記念館の館長としてアイヌ民族の文化保存に尽力した。60年には飯田市を訪れ講演も行っている。77年1月に人生の幕を閉じた。

アイヌ記念館

上のアイヌ記念館の画像をCtrl押しながらクリックすると、記念館に入れます。
川村カネト氏のことが詳しく述べられております。

更に調べを進めていると、南信州新聞3月7日付けに

 「阿南町富草公民館はこのほど、富草芸能文化祭を富草小学校で開いた。飯田線の測量士川村カネトの半生を描いた合唱劇「カネト」の公演もあり、会場は400人の人々でにぎわった。.......」続きはここをクリックして開いてみてください。

 

 

 

 

 

コメント (5)
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