昔、子供の頃に嫌な思い出があります。 小学校の頃だったと思いますが、家の近く、大阪の
上町筋の 上本町1丁目から馬場町(現、法円坂)あたりに、日赤病院と大阪国立病院が上町筋を隔てて
向い合せにあって、それが大火事となったことがありました。 日赤だったか、国立病院だったか
忘れてしまいましたが、夜の火事でそれは大変だったようです。
赤十字は、みんなよく知るところですが、明日、5月8日は“世界赤十字デー”なのだそうです。
良く知っている割には、その成り立ちなどは忘れてしまっていますので、改めて、その沿革などを
調べてみました。 ウイキペディアや日本赤十字社HPなどに詳しく出ていました。
スイス人実業家にアンリ・デュナンという人がいました。 彼は、1859年にイタリア統一戦争の
激戦地 ソルフェリーノにおいて4万人に上る死傷者の悲惨な有様を目撃したのでした。 デュナンは、
すぐに村人と協力して、戦場に倒れていた負傷者を教会に収容するなど懸命の救護に当たりました。
デュナンの心の中では「傷ついた兵士は、もはや兵士ではない、人間である。人間同士として
その尊い命は救わなければならない」との信念が生まれ、ジュネーブに戻ったデュナンは、1862年に
『ソルフェリーノの思い出』を執筆出版しました。この本がきっかけで、アンリ・デュナンの訴えは
ヨーロッパ各地に反響を呼び、1864年にはジュネーブ条約が調印されて、国際赤十字組織が誕生
しましたとありました。 1864年といえば、幕末、京都三条木屋町の旅館「池田屋」での新撰組による
長州など尊王攘夷派の殺傷事件がありました。日本は、明治維新に向けて、大きく展開している頃でした。
アンリ・デュナンは、赤十字創設者として、ノーベル平和賞の第1回受賞者となり、その後、
1948年第20回赤十字社連盟理事会で、彼の功績をたたえ、彼の誕生日である 5月8日を“世界赤十字デー
(World Red Cross Day)”と定められたのです。
赤十字のマークは、文字通り、白地に赤の十字ですが、これは、赤十字の創設者アンリ・デュナンの
祖国であるスイスに敬意を表して スイス国旗の配色を逆にしたものが基になっているといいます。
この、赤十字マークは、戦争や紛争などで傷ついた人びとと、その人たちを救護する軍の衛生部隊や
赤十字の救護員・施設等を保護するためのマークで、 紛争地域等で「赤十字マーク」を掲げている
病院や救護員などには、絶対に攻撃を加えてはならないと国際法や国内法で厳格に定められている
のです。 つまり、赤十字マークは、いざという時にわれわれ国民一人ひとりを守るマークだと
いうことです。 なので、一般の病院や、薬局などに赤十字マークを付けることは法律で禁じられて
います。 そして、このマークは大きさとか、位置だとかの規定は全くないといいます。
いざというときに、このマークを記すためで、いちいち既定などは制定しないのだそうです。
現在、190の国と地域に広がる活動は、「人の命を尊重し、苦しみの中にいる者は、敵味方の区別なく
救う」ことを目的として、赤十字社・赤新月社のネットワークを生かして組織作られているのです。
ここで、赤新月というのは、イスラム圏で、十字がキリスト教のイメージのためこれを避けて新月
(細い三日月)としているのです。
赤十字 赤新月 赤水晶(新しく制定された)
(いずれも赤十字HPより)
赤十字基本7原則というのがあるそうです。基本の原則は、“人道”で、その他の6つは、
この人道の原則を実現するために必要となるもので、すなわち、 人道、公平、中立、独立、奉仕、
単一、世界性の7つを定めています。
一方、日本赤十字社は、1877年(明治10年)に設立された博愛社がその前身となっています。
その後、1886年(明治19年)に日本政府がジュネーブ条約に加入したことに伴って、翌1887年に
名称を日本赤十字社と改称したとあります。
日本赤十字社章
(日本赤十字社HPより)
1877年2月に発生した西南戦争では、明治政府軍と薩摩軍の激しい戦闘が繰り広げられ、両軍ともに
多数の死傷者を出しましたが、この悲惨な状況に対し 佐野、大給(元老院議官)の二人は救護団体
による戦争、紛争時の傷病兵の救護の必要性を痛感し、ヨーロッパにある赤十字と同様の救護団体
「博愛社」の創設を政府に提案しましたが、混乱期にあったため却下されました。しかし、同年5月、
熊本の司令部に直接願い出、征討総督である有栖川宮熾仁親王によって、博愛社の活動が英断された
とありました。
赤十字国際委員会ジュネーヴ
(赤十字HPより)