早いもので、6月に入りました。
今年も、既に5か月が過ぎ、いよいよ夏場に向かう季節を迎えました。
6月1日は、衣替えの習慣があり、冬物から夏物に替える習わしがありましたが、最近では
これらのこともあまり言われなくなりました。気候も、暑さ、寒さがマチマチにやってきたり、
着るものも多種のものが出回り、個性的なファッション感覚が主流となっているせいでしょうか?
6月1日をメモリアルとする中で最初に浮かぶのは、電波の日ですね。この日は他に、気象記念日や
写真の日などがあります。 タイトルの写真の日というのは、一番マイナーかもしれませんが
これをメインとして取り上げてみました。。
写真の日 は、1951年(昭26年)に、公益社団法人日本写真協会により、6月1日を写真の日と
制定されたとあります。 6月1日とした根拠は、1902年(明治35年)の東京日の出新聞に連載された
「日本写真の起源」で、1841年(天保12年)6月1日に、はじめて日本人による写真撮影が行われて、
島津斉彬を写したとされることによるのですが、後にこの事が間違いであると判明したのです。
しかし、既に定めたことでもあり、そのまま今日に至っているというのです。
日本写真協会は、「東京写真月間」として、写真展を開催するなどし、外務省、環境省などとも
協賛して表彰などを行っています。
なお、わが国に写真が渡来したのは1850年頃とされ、藩主島津斉彬が撮影されたのは、1857年
9月17日とのことで、ダゲレオタイプ(銀板写真:後述します。)の撮影に成功したとあり、
今もこの写真は、鹿児島の尚古集成館に保存されているそうです。
東京写真月間 2015優秀賞
「春の目覚め」
山本公弘 (奈良県) (日本写真協会HPより)
ここで、写真技術の発明と研究の歴史について、ウイキペディア写真史より抜き読みで、
ざっと見てみたいと思います。
○カメラ・オブスクラ 16世紀頃には画家たちが風景を平面に投影して、それをトレースする
やり方で絵画にした。これは、ピンホールカメラを大きくして人が中に入ることが出来るように
したもので、投影された像を科学的に固定する技術はありませんでした。 18世紀中ごろには、
銀とチョークの混合物に光を当てると黒くなることが発見されていましたが、これが上の
ピンホール式撮像と組み合わせることになるのは19世紀の初期なのです。
○ニエプスの発明 フランス人 ニエプスは、アスファルトに光を当てると硬くなり、水に
溶けなくなることを発見し、これをカメラ・オブスクラに装てんして、1827年に撮像、定着させる
ことに成功しました。明るい日光のもとで、露光には8時間を要したとあります。
1825年頃ニエプスが版画を撮影した最古の写真
(ウイキペディア写真史より)
○ダゲレオタイプ 同じフランス人の、ダゲールは、ニエプスと協力し、アスファルトに代わる
銀化合物を改良し、ニエプス没後、先ず潜像を作り、これを定着して固定するという、露光時間を
短縮する方法を発見しました。 1839年、銅板にヨウ化銀を乗せた方式を発明し、これを
「ダゲレオタイプ」と名付けて広がり、当時の資産階級で肖像写真の流行が始まったとあります。
これを一般に、写真の発明とされています。
○カロタイプ イギリス人 タルボットは、ダゲールより早く陰画を銀方式で固定する手段を
発見していましたが、ダゲールの発明に刺激され、タルボットは紙に塩化銀を塗布し、ネガを取り、
それを別の感光紙に密着焼き付けをしてポジを得る方式を発明しました。「フォトジェニック
ドローイング」という写真術であったことから、今日のフォトグラフの名称に繋がっているのです。
この方式は、 台紙に紙を使うため、銅板を用いるダゲレオタイプに比して画像の鮮明度は
劣りますが、陰画から何枚もの複製が作れる利点がありました。1843年には写真工房が完成します。
また、この技術はフランスで改良されました。
○コロジオン法 1851年にイギリス人 アーチャーが発明した方式で、ヨウ化物を透明の
ガラス板に塗布し、硝酸銀溶液に浸し、湿っている間に撮影して、それを現像し、定着してネガを
作るというやり方です。これは感度が高く、露光時間が5~15秒と短く、1枚のネガから何枚も
プリントでき、画質もダゲレオタイプに劣らず、その上安価であったといいます。肖像写真から
記録写真へと広がり、アマチュア写真家も多く出現したそうです。
○ゼラチン乾板 1870年末期以降、湿式コロジオン法に代わって、ガラス板に乳剤を塗った
ゼラチン乾板が普及しました。感度も向上し、動く人も撮れるようになったのです。
○大衆化 1884年、アメリカの イーストマンは、紙に乾燥ゲルを塗布する方式「乾板フィルム」を
開発し、持ち運びに便利なカメラの登場となります。これがコダックカメラです。現像サービス
企業が出来、1901年には有名なコダックブラウニー(ブロニ―)の登場となり、一気にカメラは
市場に乗ったのです。
少し話題がそれますが、この時、ロールフィルムに注目した発明王エジソンは、連続した写真を
見せることによって動画を作ることができることに気が付き、1891年映写機(キネトスコープ)を
発明しました。この映写機は箱の中をのぞく方式でしたが、これをフランスのリュミエール兄弟が
改良し、スクリーンに投影する方式を考えて1895年、映画(シネマトグラフ)を発明しました。
一般に映画の発明とされています。
1925年には、ドイツの エルンスト・ライツからライカ(Leica=Leitz camera)が製造販売され、
ハイエンドのコンパクトカメラのためのフォーマットとしての24×36mm(ライカ)判の位置を固めた。
それ以降、自動露出機能が装備されるなど、より使いやすい工夫が随所に取り入れられ、
カメラはさらに進化するのです。
日本で最初に国産カメラを作ったのは小西本店(後の小西六)です。1903年のことで
「チェリー手提暗函(てさげあんばこ)」という名前だったそうです。日露戦争が終わる頃には
戦勝景気にのってこのカメラは大幅に普及しますが、高級品を求める人たちはドイツのライカを
買っていたといいます。
1928年には「日独写真機商店」(後のミノルタ)が創業、翌年第1号機の「ニフカレッテ」を
発売しました。1934年には吉田五郎による「観音カメラ」の開発となるのです。吉田は自分が
信仰する観音菩薩の名前をこのカメラにつけました。カメラの量産には日本工学(現ニコン)も協力し、
この「カンノン」カメラは、「キヤノン」として発売されたのです。
その後、1935年にはコダックがカラーフィルムを開発しました。そして1937年には、インスタント
カメラ「ポラロイド・カメラ」が発明されますが、このカメラの実際の発売は1948年にずれこんだ
といいます。
1970年代に入って自動露出カメラが出現します。これにより飛躍的にカメラは扱いやすくなり、
広く大衆のものになりました。さらに1982年にはコンパクトカメラが登場し、1986年に登場した
使い捨てカメラは、フジフィルムの《レンズ付きフィルム》として、つい先ごろまで大ヒットして
いました。これは、使い捨てではなく、実際にはこのカメラの部品は全てリサイクルされていたそうです。
そして今日のデジタルカメラへとつながって来るのですね。1995年カシオが発売した安価な
デジタルカメラ QV-10を皮切りに、次々と色々なメーカーが同種のカメラを発売し改良されています。
ネット記事に以下のようなエピソードが書かれていました。
『そんな中に当時としては先進的な一眼レフ機構を採用したカメラを大々的に売り出した会社が
ありました。萩本商会です。しかし当時まだ人々は一眼レフのカメラの必要性を認識していません
でした。ごく普通の二眼のカメラだけが売れ、一眼レフは売れず萩本商会は倒産。社長一家は
家族離散してしまいます。その一家の息子が後にコメディアンとなる萩本欽一です。一眼レフが
売れ出したのは昭和30年代に入ってからでした。・・』
そしてカメラの技術はまだまだ進歩してゆくのでしょう~。
少し長くなりました。お疲れさまでした。
6月1日を記念の日とする、電波の日と気象記念日について簡単に記しておきます。
『電波の日 1950年(昭和25年)6月1日に電波三法(電波法・放送法・電波監理委員会設置法)が
施行されたことにちなみ、国民に対して電波利用に関する知識を普及啓発させる目的で、
1951年(昭和26年)に電波監理委員会が電波記念日として制定した。電波監理委員会は1952年
(昭和27年)8月1日に廃止され、電波行政を継承した郵政省が1954年(昭和29年)に新たに
電波の日として制定した。』
『気象記念日 は、日本で気象庁が実施している記念日である。1875年(明治8年)6月1日、
東京・赤坂葵町に日本初の気象台である東京気象台(現在の気象庁)が設置され、東京で気象と
地震の観測が開始されたことを記念し、中央気象台が1942年(昭和17年)に制定した。』