蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

100年前の日本政治  (bon)

2020-01-26 | 日々雑感、散策、旅行

 今年2020年ですから、100年前は、1920年(大正9年)で、時の政府は、原敬内閣。政友会
一強の体制が到来
した時期であったという。
  ネット検索によるにわか勉強と苅部直(かるべただし)氏(東京大学法学部教授)の論文の
受け売りの域を脱しえませんが、何となく歴史は繰り返しているようで、ここにその部分を
取り上げてみたくなりました。


 1918年(大正7年)の夏ごろから、それまで第1次世界大戦連合国として、シベリア出兵に
端を発した混乱と、日本中に波及した米騒動、ジャーナリストの内閣弾劾運動などがきっか
けとなって、内閣総辞職(寺内内閣)に至り、立憲政友会総裁の原敬が政権を引き継ぎ、日本
初の政党内閣が発足したのでした。つまり、政党の党首が組織した最初の政党内閣でした。

 原内閣は、国民の意思に合致した善政を行うことを誓い、国民にも歓呼の声をもって迎え
られましたが、当時、民本主義(大正デモクラシー=民主主義)の潮流を背景に普通選挙運動
が高まっていましたけれども、原内閣はこれを拒否し、新たに有権者資格の範囲を直接国税の
納入額10円以上から3円以上に切り下げた衆議院議員選挙法の改正法として実現し、政友会は
総選挙で衆議員の絶対多数を獲得したとあります。

      原敬政友会総裁
        (ウイキペディアより)

 このあたりの流れは、苅部氏によれば、次のように述べられています。
『政友会の党首、原敬は藩閥勢力の中心である山縣有朋に対抗し、同時に巧みに妥協しなが
ら政権を握り、首相として本格的な政党内閣を作り上げた。しかし、他面では普通選挙の
実施を求める社会の声を冷淡に拒み、五月の総選挙で衆議員の絶対多数を獲得して権力の
基盤を確立した。 その「一強」体制を下支えした利益誘導による政治家の腐敗ぶりと、
原の傲岸な態度に対して、野党と社会の不満は頂点に達し、やがては 翌年の首相暗殺事件を
引き起こすことになる。』
 やや不穏当のきらいがありますが、100年前の事実なんですね。

 ここで、政治史学者・思想家、吉野作造(1878-193)が登場するのです。 吉野作造は、
いわゆる大正デモクラシーの理論を提示した論文「 憲政の本義を説いて其有終の美を済すの
途を論ず」を発表(1916年)し、これ以来ずっと説き続けた論点は『世論と議会に基盤を持っ
た政権の実現だけではなく、英国の保守党・自由党の体制に近いような、二大政党の対立と
政権交代もありうる体制でなければならない。』 つまり、『民意に基盤を置き、議会に対し
て責任を負う内閣が成立するだけでは、デモクラシーは十分に機能しない。 政党間の競争が
そこで活発に行われ、適切なタイミングで政権政党が交代することで「政党内閣妙用」は十分
に発揮される。』と。

       吉野作造政治史学者
        (ウイキペディアより)

 しかし、『1921年発行の中央公論で、吉野論文曰く、原内閣は、すでに「多数民衆」に支持
を失っていると指摘した。しかし、少数政党が分立する野党勢力の中に、原敬と同じような
やり方で政権を獲得できる力量を持つ政党は見当たらない。 したがって、「他に之に代わる
適当なものがない」という全く消極的な理由で 原政権は存続している。』

 これが100年前の、状況ですが、なにやらその100年後も同じような、セリフが聞こえてきそ
うです。 先ごろ、二つの民主党が統合するかに見えた議論がありましたが、つまらぬところ
で、物別れになってしまいました。 また、ある党は、野党連合を作って、とにかく現政権を
打開したいと、のろしを上げているところもあります・・が、どうなるでしょうか?

       100年前の生活風景
        (ネット画像より)

 100年前の1920年は、戦後(第1次世界大戦)恐慌は、生糸の暴落を手始めに 多くの商社が
深刻な打撃を受け、銀行も取り付け騒ぎとなって混乱し、原内閣に陰りがみえ、翌大正10年
11月4日 原首相は東京駅で刺殺され、閣僚は辞職に追い込まれ幕を閉じました。これを受けて、
立憲政友会を率い高橋是清が組閣しましたが、まもなく閣内不統一で総辞職し、政党内閣は
終焉してしまうことになるのです。

 

 

 

 

 

コメント
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