蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

小林一茶  (bon)

2020-11-19 | 日々雑感、散策、旅行

     新型コロナ感染者数は昨日2000人を超え、東京493、神奈川226、埼玉126人などで、
     過去最多を記録したそうです。東京、大阪などの統計でみると、夏とこの11月では、
     20~30代は減少し6~70代、80代が増加している。クラスターも夜の街ばかりでなく、
     会食、大学、職場、家庭など一般的な場所に広がっているそうです。
     寒い、乾燥期を迎え一層留意したいものです。

 

 松尾芭蕉や与謝蕪村と並んで「江戸三大俳人」として、親しまれる小林一茶は、
1827年の今日、11月19日(旧暦)が命日だそうです。 65歳でした。 その作風
は身近な対象を優しくとらえ、子供の頃から親しみを覚えていました。

   ・すずめの子 そこのけそこのけ お馬が通る
   ・やせ蛙 負けるな一茶 是にあり

小さな動物たちにもこぼれるような愛情が注がれているのですね。

 そんな小林一茶は、作風に似合わず幼少の頃から大変苦労続きで、その人生に
は激しいものがあるのです。

        

 当ブログの 2014.11.19に取り上げていますが、晩年の凄まじい生活も含めて
ここに再度取り上げました。

         (ウイキペディアより)

 一茶は、本名を小林弥太郎といい、1763年、長野県の北部、現信濃町の農家に
生まれます。 3歳のときに母がなくなり、8歳で新しい母を迎え、
その母に義弟
が生まれ、毎日子守をさせられては一茶が悪者にされて、杖でぶたれたり継母に
は相当いじめられたとあり、15歳で江戸に出、奉公先を点々としながら、俳句の
道をめざすようになったそうです。

 父の看病のために郷里に帰って(39才)来ますが、敢え無く亡くなってしまう
のです。そしてその後、遺産相続をめぐって、12年もの間継母・義弟との間で争
いが続いたそうです。しかしこの間、一茶は江戸での俳句の研鑚の功あって俳人
としての評価は高まっていったのでした。

 

  一茶50歳のとき、再び故郷に帰り、長年の遺産相続がようやく和解でき落ち
着いた生活を過ごすのです。 52歳の一茶が24歳年が離れた嫁(28歳)を迎え3男1
女をもうけますが 、いずれも2歳までに亡くしています。 妻も37歳の若さで亡
くなり、その後再再婚しますが、1827年の大火に逢い母屋を失い焼け残った土偶
で生活するようになります。 
その年の11月19日に土偶の中でその生涯を閉じた
のです。

       (信濃町観光協会より)

  代表的な句をいくつか挙げてみます。

          ・大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
          ・めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
          ・やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
          ・雀の子そこのけそこのけお馬が通る
         ・蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
         ・やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
          ・名月をとってくれろと泣く子かな
          ・これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
          ・我ときて遊べや親のない雀

 正岡子規によれば、『俳句の実質に於ける一茶の特色は、主として滑稽、諷
刺、慈愛の三点にあり。』と述べていて、『 幼少期を過ごした家庭環境から、
いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風
をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と平易かつ素朴な語の運びに基
づく句作が目を引く』とされています。
     
        

 残された一茶の日記の記述から、“結婚後連日連夜の交合に及んでおり、妻の
妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり63歳のときに言語
症を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかった。” (ウイキペディ
アより)という御仁でもあったそうです。

 俳句からとてもそのようなことを想像することはできませんが、そのようなこ
とをわざわざ日記に記すというのも信じがたいところです。
 ネット記述(コムリンンク)によれば・・

    六 晴  キク月水 弁天詣デ
    七 晴  菊女赤川(実家)ニ入ル
    八 晴  菊女帰ル 夜五交合
    九 晴  田中希杖ヨリ一通来ル、去ル五日、沓野ノ男廿二、
         女廿
三、心中死ス

   十二 晴  夜三交
   十五 晴  婦夫月見 三交 留守中、木瓜(ぼけ)の指木
         (さき)何者カコレヲ抜ク
      十六 晴  白飛ニ十六夜セント行クニ留守 三交
      十七 晴  墓詣 夜三交
      十八 晴  夜三交
       廿 晴  三交
      廿一 晴  牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯 四交

あぁ、すごいことですね。

 優しい親しみのある句を 生涯2万2000句も残されている一方で、このような
私的な側面があったとは信じられないですね。 

 江戸時代に、50代の人がひと晩に3度も4度もできるというのですからすごい
ですね。妻である菊は、結果的に37歳で過労死してしまいます。その後、一茶62
歳のとき、という女性と再婚しますが、あまりにも多すぎる夜の営みが原因
か、わずか3カ月で離婚するのです。さらに64歳のとき、32歳のヤオという女性
と3回目の結婚をし、女盛りの妻を相手に、一茶は65歳で亡くなる直前まで営み
を続けたという話が伝えられているそうです。

      おらが春
        (アマゾンHPより)

 一茶の代表作として、俳諧俳文集『おらが春』があります。文政2年(1819年)、
57歳になった一茶が、折々の出来事に寄せて読んだ俳句や俳文をまとめたもので、
その表題は、本文の第一話の中に出てくる句「目出度さも ちう位也 おらが春」
からとられているそうです。

 

 

Henry Mancini, "Pink Panther Theme"

 

 

 

コメント
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