蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

白蓮  (bon)

2023-02-25 | 日々雑感、散策、旅行

 そうです。あの柳原白蓮です。

  柳原白蓮は、大正~昭和時代の歌人で、大正三美人として名を連ねていますからご存じ
の方も多いと思います。 また、NHKの朝ドラ『花子とアン』(2014年前期放送)の葉山
蓮子(仲間由紀恵)がその人で、主役、村岡花子(吉高由里子)と女学校時代からの友人
で、その後も深いつながりの間柄だったようです。

        柳原白蓮
         (ウイキペディアより)


 なぜ「白蓮」かといえば、5年前に、池袋の「自由学園明日館」を訪れた時に、白蓮が
81歳で亡くなるときに住んでいたという家を探したことがあったのです。結局は見つける
ことはできませんでした。

 高校同期の、関東在で構成している「東期会」は、毎年春と秋に集まりを持っていて、
春は、少し遅めの新年会で2月初旬に集まっていたのが、コロナ禍でずっと開催されてい
なかったのです。しかし、このところコロナの新規感染者数も少なくなり、来月からマス
クも個人判断でよい・・などと、沈静化してきたので、3年ぶりに集まりが再開されるの
ではないかと思って、集まる場所候補として、ベストではないかもしれないが、上記の
「自由学園明日館」(拙ブログ、2018.6.22)を提案したのです。

 このことがきっかけで、「白蓮」について改めて、ネット検索に及んだということなん
ですね。ずいぶん回りくどいお話ではありました。

 

 柳原白蓮は、本名、宮崎燁子(あきこ、1885~1967)で、父は柳原前光伯爵、大正天皇
の生母である柳原愛子の姪で大正天皇の従妹にあたる錚々たる家柄なんですね。

 燁子は、東京で生まれますが、9歳の時遠縁にあたる子爵北小路家の養女となり、和歌
の手ほどきを受けるなどして、華族女学校(学習院女子中等科)に通います。同居する
知的障害を持つ長男は粗暴で大変嫌がっていたが、華族礼など法の下に婚姻が定められた
燁子は、結婚を承諾させられ女学校も退学し、15歳の若さで男児を出産するのです。北
小路家はその後、京都に引っ越しますが、夫婦仲は良くなく子供を残す条件で離婚が成立
し実家(柳原)に戻ります。20歳。

        北小路家の嫁(16歳の頃)
         (ウイキペディアより)

 実家に戻った燁子は、出戻りとして本家ではなく、母の隠居所で監督下に置かれ幽閉
同然の生活となり、ひたすら読書に明け暮れる日々を送るのです。23歳で東洋英和女学校
に編入学し寄宿舎生活を送ることになり、佐佐木信綱主宰の短歌の会に入門するなど、
充実した学園生活を送ります。 女学校では、自分よりずっと年下の生徒たちとも打ち
解け、とくに後に翻訳者となる村岡花子と親交を深め、「腹心の友」となるのです。


 25歳で女学校を卒業すると、九州の炭鉱王・伊藤伝衛門と結婚します。 伝衛門は、
すでに50歳で炭鉱労働者からのたたき上げで学問はなく妻と死別直後であったそうです。
親子ほどの年齢差・身分・教養ともあまりに不釣り合いであり、日の出の勢いの事業家
で富豪とはいえ、労働者上がりで地方の一介の炭鉱主が「皇室の藩塀」たる伯爵家から
妻を娶るのは前代未聞のことで、「華族の令嬢が売物に出た」と話題になった とあり
ます。 東京大神宮で結婚式を挙げ、帝国ホテルで披露宴を挙げたそうです。

        伝衛門との結婚
         (ウイキペディアより)

 しかし、伝衛門は若いころの放蕩が過ぎて子供のできない身であり、燁子は子供のい
ない炭鉱王の妻として大勢の使用人、女中、下男も暮らす複雑な大家族の女主人となる
のです。 このころ、燁子はひたすら短歌に打ち込み、師である佐佐木信綱が主宰する
竹迫会の機関誌『心の花』に発表し続け、師から、「白蓮」の雅号を授かるのです。30歳
の時、処女作の歌集『踏絵』を自費出版するのです。これは、人気画家の竹久夢二が挿絵
を手がけた豪華な装丁の本だったそうです。

 ある事件の証人として、燁子が公の場に出たことが新聞に「筑紫の女王」という呼び
名で連載され、豪勢な生活を送りながら不幸な結婚生活に嘆くという私生活を詳細に書
き立てる記事には白蓮の歌が引用されており、白蓮が燁子であることが全国的に知られ
ることになるのです。詩集『几帳のかげ』・歌集『幻の華』を刊行しています。菊池寛
が、1920年に出版した『真珠夫人』は燁子がモデルとされ、ベストセラーになっている
とありました。

 34歳で、雑誌「解放」に戯曲『指鬘外道』(しまんげどう)を発表し、これが評判と
なり本にすることになります。「解放」の主宰、宮崎龍介と接近することとなり、これが
東京で上演される際には、二人は恋仲となっていました。 7歳下の龍介は、筋金入りの
社会運動家の血筋で、東京帝国大学法科のバリバリでしたが、二人の恋はすでに明るみ
に出るようになり、社会運動家がブルジョワ夫人との恋愛遊戯は思想の敵として編集を
解任されています。二人はとうとう駆け落ちするのです。

        宮崎龍介との家庭
         (ウイキペディアより)

 燁子は、3度目の結婚をし、1男1女をもうけますが、この結婚は初めて自らの意思に沿っ
た結婚で、充実していたのでしょう。龍介は病みがちで収入がなく、燁子の筆一本で生計を
支えていたそうです。その後は龍介と共に、娼婦の救済活動や労働運動関連者らを世話し
社会的にも活動していました。1934年には、歌集「ことだま」を刊行します。

 戦後は、「悲母の会」を結成し、熱心な平和運動家として支部設立のため全国を行脚
したとあります。

 晩年は、緑内障で徐々に両眼の視力を失い、龍介の手厚い介護のもと、娘夫婦に見守ら
れ歌を詠みつつ暮らす穏やかな日々をおくるうち、1967年(昭和42年)2月22日、心臓衰
弱のため西池袋の自宅で亡くなったのでした。81歳没。

 

 華族という家系に生まれ、それがもとで自由な結婚が許されず、2度にわたる不本意な
結婚を経験するも自信を失うことなく、歌集、小説を発表するなどし、とうとう自身が
選んだ結婚を成し遂げ、社会的な活動にも注力したダイナミックな女性だったのですね。


                     木瓜
                  (ベランダにて)

 

 

 

Dorina Santers - Goodbye My Love Goodbye (Full Video HD)

 

 

 

コメント (4)
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