今日は、二十四節気の「雨水」です。空から降るものが雪から雨に変わり、
氷が溶けて水になる、という意味だそうです。三寒四温がぴったりとする頃で、
いよいよ春に向かっているのですね。
昨日(2/18)は、芸術家、岡本太郎の生母、岡本かの子の命日でした。
何年か前(9年前)に、小田急電鉄の向ヶ丘遊園駅からほど近い、生田緑地のバラ
苑に行ったとき、もう一つのお目当てだった、岡本太郎美術館を少し足を延ばして
訪問しました。
岡本太郎独特の絵画やオブジェ風のものがたくさんあり、少し異様な感じでもあ
りましたが、中に、お母さんの「岡本かの子」の解説などもあり、かなり飛び離れた
お母さんの印象を強くしたのでした。
美術館前庭に立つ「母の塔」(岡本太郎作)
(2014.5.19撮影)
彼女の命日に因んで、拙ブログに取り上げてみようと、ウイキペディア他のネット
記事を検索しましたら、かなり幅の広い、かつ波乱に満ちた人生を送られていること
を改めて知るところとなりました。
岡本 かの子(本名:岡本 カノ、旧姓:大貫、1889.3.1~1939.2.18)は、大正・
昭和期の小説家、歌人、仏教研究家とありました。
岡本かの子(30歳の頃)
(ウイキペディより)
彼女は、川崎の高津村の大地主の長女として生まれ、小さい頃から源氏物語や古
今集などの手ほどきを受け、兄の文学活動から谷崎潤一郎が出入りする環境にあった
そうですが、17歳の頃には自ら与謝野晶子を訪ね、大貫可能子の名で歌が世に出始
めるのです。
19歳の頃、漫画家岡本一平と知り合い、2年後に結婚して、長男太郎が生まれます。
しかし、芸術家同士の個性が激しく衝突したり、一平の放蕩が止むことなく、さら
には兄や母の死に直面し、実家、大貫家も破産し家計は苦しく、かの子自身は神経
衰弱になるなど暗黒の時期を過ごすことになります。
これを救ったのは「歎異抄」であったとされ、生きる意欲を得るとともに、仏教
に関するエッセイを発表するなど仏教研究家として活動するのです。 1929年には、
一家を挙げてヨーロッパに外遊し、太郎はパリに置いたまま、ベルリン、ロンドン
などに滞在し、そのまま太郎を残して3年後に帰国するのです。
かの子は、すぐに小説を書きたかったようでしたが、世間から仏教に関する講演
や執筆を依頼され、ようやく1936年(かの子43歳)になって、芥川龍之介をモデル
とした小説「鶴は病みき」を川端康成の紹介で文壇「文学界」に発表し、作家的な
出発をするのでした。
彼女は49歳の若さで他界するのですが、デビュー後3年余りで、次々と小説を発表し、
パリに残した太郎への愛を母と子の姿で描いた「母子叙情」をはじめ、自由と虚無感
を描いた、当時絶賛された「老妓抄」、など代表作を著しています。
若年期は歌人として活動しており、その後は仏教研究家として知られ、晩年になっ
て次々と小説を発表するなど精力的な執筆活動を展開し、死後にも女性が主体となっ
て生きる姿を描いた「生々流転」など多くの遺作が発表されています。その作風は
耽美妖艶を特徴とするとありました。
これらの活動のうらには、私生活において奇妙な夫婦生活を送るなど波乱に満ちた
人生であったようです。 しかし、49歳というのはあまりにも早世でした。
ワーグナー/「ローエングリン」第3幕への前奏曲 Wagner: "Lohengrin"