突然ですが、加藤清正はご存じ、安土桃山時代から江戸時代初期の武将で、
肥後熊本藩初代藩主ですね。1611年の昨日6/24(旧暦)が命日とありました。
享年50歳だったそうです。
もともとは、尾張中村の出身(生まれた日も6/24だそうです)で、母親が秀吉
の母と従姉妹だとかで秀吉の小姓として仕えていたが、武勲誉めでたく、賤ケ岳
の戦いでは「賤ケ岳の七本槍」の一人と称され、1588年には、肥後北半国19万
5,000石を与えられ熊本に入るのです。
加藤清正公
(ウイキペディアより)
熊本の藩主・大名として24年ばかり勤めますが、実際に熊本に居たのは延べ
15年ほどとあり、他は、戦場で活躍したそうです。中でも、1592年から朝鮮への
出兵を命じられ、ライバル小西行長とは先陣を争い、漢城(現ソウル)一番乗り
を果たすなど軍勢勇ましく、戦に不慣れな朝鮮軍をどんどん北に追いやって行っ
たそうです。
李氏朝鮮第14代王朝の頃で、韓国ドラマでもこの辺りが描かれていて、王様は
首都を後に逃げて行くシーンもあります。 やがて、明(中国)の助太刀で、
日本軍は後退してしまうのですが・・。
また、第14代国王宣祖には二人の息子(庶子)がいて、長男(臨海君)は粗暴
で人望がなく、後に第15代国王には次男(光海君)がなるのですが、当時この
二人とも清正軍に捕らえられていたりするのですね。
秀吉が亡くなる1598年には、清正も朝鮮から帰還しますが、この時、臨海君の
子、日延を日本に連れてくるのです。 この日延については後ほど出てきます。
で、帰国した清正は、五大老の徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは結局東軍
に付くのです。ここでも、九州の西軍勢力を次々と破る功績をあげ小西旧領の
肥後南半を与えられて52万石の大名となるのです。
地震から復旧した熊本城天守閣
(日経クロステックより)
清正は、藤堂高虎や黒田孝高と並ぶ築城の名手として、熊本城や江戸城、名
古屋城などの築城に携わるほか、治水事業にも取り組んでいたそうです。1611年
に亡くなることになるのですが、この頃は徳川、豊臣の和解のための仲介を果た
している途中に発病してしまうのです。
墓所は、熊本の本妙寺、山形の天澤寺、東京港区の覚林寺、大田区の池上本門
寺他にあるとありますが、この中の東京港区の覚林寺というのは白金にあり、
目黒通りが桜田通り(1号線)に合流するすぐ近くにあり、この合流点は「清正
公前」と呼ばれています。この「覚林寺」は、先に述べた、臨海君の子、日述
が開いた寺で、そこに清正公が祀られているのだそうです。
覚林寺
この近くに都ホテルがあり、以前には、高校同窓会の東京支部の総会で毎年
この都ホテルを使用していましたが、どうして清正公がこのようなところに関係
しているのか不思議に思っていたものでした。
懐かしいJALのジェットストリームでお馴染みの曲ですね。清正とは関係ありませんが・・。
Mr.Lonely/Caravelli