金沢には “三文豪” と呼ばれる三人の作家がいます。 徳田秋聲、泉鏡花、室生犀星です。
日本の近代文学史には欠かせない三人の個性と金沢の風土には大きなつながりがありました
このブログの2013.7.14 “白鳥路” にも写真をアップしていますが、この3文豪の像が、白鳥路の中ほどに
建てられています。
で、昨日、3月26日が忌日の 室生犀星 について調べてみました。
犀星については、いまさら・・ で皆さん良くご存知ですが、振り返って いくつかの詩などを思い返してみたいと
思います。
室生犀星は、1889年(明治22年)~1962年(昭和37年)の人で、金沢市千日町に生まれた詩人・小説家です。
加賀藩の足軽頭だった小畠家の女中、ハルとの間に私生児として生まれました。生後まもなく、生家近くの
寺院住職の 室生家 内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の私生児として照道の名で戸籍に登録された、
とあり、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を
与えたようです。 「お前はオカンボ(妾を意味する方言)の子だ」 と揶揄された犀星は、生みの母親についての
二重束縛を背負っていたのでした。
犀星像
(ウイキペディアより)
「夏の日の匹婦の腹に生まれけり」。 との句は、
犀星自身50歳を過ぎても、この二十束縛(ダブルバインド)を引きずっていたことを提示している、とあります。
犀星記念館が、彼の生家後に建てられており、犀星文学碑は、犀川大橋から犀川沿いに少し上流に歩いた
桜橋手前の左側にひっそりとあります。この桜橋までの両岸の道路は“犀星のみち”と呼ばれています。
犀星記念館 (記念館HPより) 文学碑(HPより)
彼は、若くして上京後、文壇に盛名を得た以後も金沢にはほとんど戻らず、代わりに犀川の写真を貼っていたという。
以下に、いくつか (ごくわずかですが) 作品を抜粋してみました。
小景異情(第一部)
その一
白魚はさびしや
そのくろき瞳はなんといふ
なんといふしほらしさぞよ
そとにひる餉(げ)をしたたむる
わがよそよそしさと
かなしさと
ききともなやな雀しば啼けり
その二
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
その三
銀の時計をうしなへる
こころかなしや
ちよろちよろ川の橋の上
橋にもたれて泣いてをり
その四
わが霊のなかより
緑もえいで
なにごとしなけれど
懺悔の涙せきあぐる
しづかに土を掘りいでて
ざんげの涙せきあぐる
その五
なににこがれて書くうたぞ
一時にひらくうめすもも
すももの蒼さ身にあびて
田舎暮しのやすらかさ
けふも母ぢやに叱られて
すもものしたに身をよせぬ
その六
あんずよ
花着け
地ぞ早やに輝やけ
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ
ああ あんずよ花着け
犀川
うつくしき川は流れたり
そのほとりに我は住みぬ
春は春、なつはなつの
花つける堤に座りて
こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ
いまもその川ながれ
美しき微風ととも
蒼き波たたへたり
みやこへ
こひしや東京浅草夜のあかり
けさから飯もたべずに
青い顔してわがうたふ
わがうたごゑの消えゆけば
うたひつかれて死にしもの
けふは浜べもうすぐもり
ぴよろかもめの啼きいづる
室生犀星ではありませんが、上の“ふるさと”の作曲家 と同じ磯部俶で、わたしの好きな歌の一つです。
記事や季節に合った音楽もまた楽しみです。
本当に楽しませて頂いております。
(別件)コメントを書く時、名前・タイトル・の次のURLを入れると名前nhayashiにアンダーラインが付き、それをクリックすると名前のブログに飛ぶ機能があるのをこの間私ははじめて知りました。
懐かしい話題や、気になった事柄など、取りとめなく記事にしたりして・・お騒がせしています。
名前の後のURLのこと、全く気にしていませんでした。
さっそく、教えていただいた通り、やってみました。
コチラもありがとうございました。