港区愛宕に曹洞宗大本山總持寺出張所を兼務している「愛宕山伝叟院」はある。伝叟院は青松寺の子院で開山は青松寺第10世十洲補道大和尚。正保3年(1646)開創。本尊は釈迦如来座像。大正大震火災の際港区横死者の火葬場であり境内には百十数人の無縁の精霊を弔うために震災記念「聖観世音菩薩像」が建てられている。また長州江戸藩邸没収事件の犠牲者が葬られた寺院でもある。この一帯は江戸時代には愛宕山を中心に北端の武家地を除いた殆どが24から25の寺院で占められていた。真福寺、青松寺は当時の地に現存、考寿院、清岸院、伝叟院は愛宕内で移転存続している。301号線愛宕神社前信号手前に大きな建物の「本堂」がある。本堂左手に「聖観世音菩薩像」が建てられている。当院の背後に愛宕山エレベーターがある。(1806)
今年3月29日オープンした「東京ミッドタウン日比谷」へ初潜入。有楽町一丁目1番地2号に事務所、店舗、文化交流施設、産業支援施設を主要用途にした面積:約10,700㎡、延床面積:約189,000㎡、階数:地上35階、地下4階、ペントハウス1階のビッグビルディングである。テナントも初出店も含め魅力ある60店舗が入った。開業初日にはオープン時間前に約1,000名を超える客の列ができ初日だけで約10万人が来場するほどの期待度大であったようだ。開業から1ヶ月前のゴールデンウィークを目前に来場者数200万人を突破し東京の、日比谷の「新たなランドマーク」として好スタートを切った。今日も平日だというのに飲食店、レストラン、テイクアウト店舗に長蛇の列、多くの来場者、買い物客で賑わっていた。6階には「パークビューガーデン」もあり皇居、お濠を一望できる。映画館=東宝シネマもあり観劇映画帰りの人、夕方以降は会社帰りのビジネスマン・ウーマンで来場はグーンとアップする。(1806)
鎌倉市雪ノ下、古都鎌倉の中心に三大八幡宮の一つ、源氏の氏神、鎌倉武士の守護神で鎌倉八幡宮とも呼ばれ、相模国一宮の「鶴岡八幡宮」はある。三大八幡宮(宇佐神宮、石清水八幡宮)の一つ当宮の創建は康平6年(1063)と凡そ千年近く前てある。明治3年(1870)の神仏分離までは「鶴岡八幡宮寺」であった。主祭神は応神天皇、比売神、神功皇后である。国の史跡の境内には「若宮」、本宮へと続く大石段の下にある朱色の「舞殿」、「直会殿」、61段の勾配ある「大石段」を上り切ると「八幡宮」の額が掲げられた朱色の「楼門」、その奥に「拝殿」へと繋がった「本宮」がある。流権現造りの本宮をはじめ全体が朱色で統一された建物群はいかにも煌びやかで荘厳でありまさしく古都鎌倉の象徴である。宮内左側には豪華な神輿が何台も並んでいる。数年前倒れた御神木の「イチョウ」、移植し大分大きくなっていた。(1806)
鎌倉市小町に中山法華経寺を旧本山とし、「鍋かむり」で知られる日親ゆかりの日蓮宗総寺院「叡昌山妙隆寺」はある。創建は至徳2年(1385)。この一帯は鎌倉幕府の源頼朝御家人の千葉常胤の子孫「胤貞」の別邸「千葉屋敷」跡に祖先追福のため七堂伽藍を建立が興りである。中山法華経寺の日英上人(室町時代の代表的な日蓮宗の僧)が開山。足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、永享12年(1440年)立正治国論を著して直訴を試みたが投獄され、拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法され「鍋かぶり上人」、「鍋かぶり日親」と呼ばれている。本尊は釈迦牟尼仏。日蓮聖人辻説法跡地近くに位置し「寺号標」(寺門)から参道中ほどに構えられた「山門」を抜けると正面に「本堂」がある。本堂左手に「寺務所・朱印受付所」がある。本堂右手には百日寒行をした「血の池」跡が残されている。鎌倉七福神の一つで「寿老人」を祀る。(1806)
鎌倉扇ヶ谷に当地の鎮守「相馬天王」と称された「八坂大神」はある。建久3年(1192)に千葉一族の相馬次郎師常が自邸内に守り神として勧請したのが始まりとされる。後に浄光明寺の裏山に遷され、さらに寿福寺の本堂脇を経て現在地に遷された。明治の神仏分離により「八坂大神」に改称した。祭神は素戔嗚尊、桓武天皇、葛原親王、高望王。佐助に鎮座する銭洗弁財天「宇賀福神社」は昭和45年(1970)まで八坂大神の末社であった。「巽神社」の対向側、「寿福寺」の山門左側に鎮座している。「鳥居」を抜けると二本の大きな木がありその奥正面に「社殿」がある。末社の子神社がある。当社の神輿は「鉄の神輿」の伝説がある。京都の祇園「八坂神社」の神輿を範とした六角形、鉄製であったため祭りの時には血を見ないではすまない神輿だった。今は木の神輿となった。(1806)