労働問題をめぐる様々な局面について、会社の論理と労働者の論理を挙げた上で、一方の論理で考えるのではなくそのバランスを取ることが大事だということを述べる本。
論理の体裁としては会社側と労働者側の間で中立な立場であるかのように見せながら、実質的には会社の論理を優先していると、私には感じられます。
そもそも両当事者の利害を挙げてその均衡を図るというスタイル自体、両当事者が対等であることを前提とする、法学の世界で言えば民法的なスタンスです。そういう民法、市民法の考え方が、力関係の大きく異なる労使間では成り立たず、自由主義的市民法的規律の下では労働者が一方的に不利な立場を強いられ正義に反することから、使用者側の行為を規制するというのが労働法の出発点です。
そして、この本では会社の論理と労働者の論理を並べた上で、会社の論理に従うことが実は労働者の利益にもなるのだと言う場面が多々あり、また会社の論理は常にはっきりさせながら対置させるべき労働者の論理は労働者を2分して内部対立させてはっきりしないとしてみたり生活者の論理を持ち出して労働者の論理を押し戻したりしています。このあたりを見ても著者が会社と労働者を公平に扱っているとは思えません。
論理の運びのスタイルだけでなく、著者自身の意見を見ても、解雇の規制の緩和(例えば147~148ページ)とか「自由で自立した生き方を選んだ」フリーターの積極的評価(例えば168~170ページ)とか、実力あるノンエリートにチャンスを与えるという派遣労働の積極的評価(106~107ページ)とか、結局は自由主義的な、使用者団体が喜ぶ方向の意見が並んでいます。
職場でのセクハラの関係では、男性が声をかけることは3回までは許して欲しい(16~17ページ)とか、「前の彼氏の色に染まっている女と、付き合いたいと思う男は少なかろう。」(127ページ)とか、今時こんなこと書くかなぁという女性観も披露しています。
また、タイトルの「雇用はなぜ壊れたのか」ということは何も書かれていないと思います。労働法が著者の目からは労働者を保護して会社を規制しすぎてあるべき雇用が壊れたと嘆いているのかも知れませんが。
ちょっと、読んでいてうんざりする本でした。
大内伸哉 ちくま新書 2009年4月10日発行
論理の体裁としては会社側と労働者側の間で中立な立場であるかのように見せながら、実質的には会社の論理を優先していると、私には感じられます。
そもそも両当事者の利害を挙げてその均衡を図るというスタイル自体、両当事者が対等であることを前提とする、法学の世界で言えば民法的なスタンスです。そういう民法、市民法の考え方が、力関係の大きく異なる労使間では成り立たず、自由主義的市民法的規律の下では労働者が一方的に不利な立場を強いられ正義に反することから、使用者側の行為を規制するというのが労働法の出発点です。
そして、この本では会社の論理と労働者の論理を並べた上で、会社の論理に従うことが実は労働者の利益にもなるのだと言う場面が多々あり、また会社の論理は常にはっきりさせながら対置させるべき労働者の論理は労働者を2分して内部対立させてはっきりしないとしてみたり生活者の論理を持ち出して労働者の論理を押し戻したりしています。このあたりを見ても著者が会社と労働者を公平に扱っているとは思えません。
論理の運びのスタイルだけでなく、著者自身の意見を見ても、解雇の規制の緩和(例えば147~148ページ)とか「自由で自立した生き方を選んだ」フリーターの積極的評価(例えば168~170ページ)とか、実力あるノンエリートにチャンスを与えるという派遣労働の積極的評価(106~107ページ)とか、結局は自由主義的な、使用者団体が喜ぶ方向の意見が並んでいます。
職場でのセクハラの関係では、男性が声をかけることは3回までは許して欲しい(16~17ページ)とか、「前の彼氏の色に染まっている女と、付き合いたいと思う男は少なかろう。」(127ページ)とか、今時こんなこと書くかなぁという女性観も披露しています。
また、タイトルの「雇用はなぜ壊れたのか」ということは何も書かれていないと思います。労働法が著者の目からは労働者を保護して会社を規制しすぎてあるべき雇用が壊れたと嘆いているのかも知れませんが。
ちょっと、読んでいてうんざりする本でした。
大内伸哉 ちくま新書 2009年4月10日発行