タックス・ヘイブンの匿名法人を利用して不正蓄財や犯罪収益を隠匿していた政治家や財界人、犯罪グループを暴いた「パナマ文書」スクープを始め、各国での汚職や組織犯罪を暴く調査報道の事例、それらを担う新聞社や元編集者・元記者らがつくり寄付で運営するNPOの現状、調査報道の手法についてのジャーナリストたちの情報交換・経験交流などを紹介し、日本の現状について苦言を述べる本。
第1章の「パナマ文書」をめぐる世界各国の数百名に上る記者たちの連携と調査の遂行、そして調査過程で裏切者が出ることなく秘密と解禁日が守られたことには驚きと感動を覚えます。
第2章の各国で記者たちが圧力と迫害を受けながら汚職や組織犯罪を暴く調査報道をする様子も、興味深く読みました。もっとも、この章でイタリアの記者が警察と協力し警察から情報をもらい捜査に配慮している様子を、肯定的に描いているあたり、イタリアの記者に「警察官も他の取材先と同様に扱う」、「我々は警察の広報係じゃない」(96ページ、97ページ)と言わせてはいますが、どうかなと思います。安倍政権の提灯記事を書いている日本の記者だって、聞けば公平・中立だの我々は政府の広報じゃないというと思いますけど。
第3章で、地方紙の記者やNPOの調査衝動を紹介していますが、ここでも、オレゴン州の「革新知事」だったゴールドシュミットについて政界引退後にかつてベビーシッターとして雇った14歳の少女と性関係を持っていたことを暴いて叩き潰し州議会議事堂の歴代知事の肖像画からも撤去させその功績と歴史を消し去った地元紙のスクープをほめたたえています(125~138ページ)。リベラル/革新の政治家をその権力から離れた後に叩く、タブーへの挑戦ではなく、より大きな権力・保守系政党の利益に沿う行動です。この「スクープ」の情報は、もともとゴールドシュミットの政敵の上院議員からもたらされたものです(127ページ)。その経緯を見ても、リベラル/革新勢力を叩きたい権力者・保守系政党の思惑とリークに記者が踊らされ操られたということではないのでしょうか。
日本で調査報道がやりにくい事情として、裁判記録の公開の程度が低いことが挙げられています。アメリカでは裁判記録の全体(提出された書面や証拠書類も含めて)がネットでダウンロードできるというのを聞くと世界が違うというふうに思いますし、私も裁判に限らず日本の個人情報隠しは行き過ぎの感があり違和感を持つところはあります。ただ、本来の意味での一個人の情報は、権力と戦うことなどほとんどなく弱い者いじめに血道を上げる三流週刊誌(あえて言わせてもらえば「週刊新潮」とか)が跋扈する日本の現状を考えると、公開に反対したい気持ちが強くなります。
裁判の関係者の名前が判例集で隠されるようになったのは、ネットでの検索が一般的になるころからではなかったかと思います。日本でも、以前は判例集に当事者や関係者の実名が記載されていて、図書館で紙媒体の古い判例集をめくれば今でももちろんそれを見ることができます。私の専門分野の労働事件では、古くから事件名は使用者企業の名前で呼ぶのが通例で、今でも多くの事件はそうやって事件名がつけられます。しかし、企業や役所は企業名を出すことを嫌がります。情報公開法で、個人の情報と並んで「法人情報」も企業の競争に影響を与えるなどとして公開対象から外されているのは、企業の意向/利益を最優先したものと思います。労働事件の事件名の分野でも、日本経団連が発行している判例雑誌「労働経済判例速報」では、大企業でなければ企業名を隠す傾向にあり、ほとんどの事件が「X社事件」「甲社事件」とされて事件名を付ける意味がなくなっています。エルメス・ジャポンなどの有名企業でも「X社」とされます。労働事件関係の判例雑誌で一番メジャーな「労働判例」(産労総合研究所)でさえ、判例時報が当事者を「ホッタ晴信堂薬局」と書いている事件を「甲野堂薬局事件」と表記したり、海遊館と報道されている事件を「L館事件」と表記したり、企業の意向を忖度し遠慮して匿名化を図ることが多くなっています。2016年6月に弁護士会の研修で私がコメンテーターとしてしゃべったのが第二東京弁護士会の機関誌に収録された(NIBENフロンティア2017年4月号)際にも、私が「海遊館の事件で」と言ったのが、勝手に「L館事件で」と直されてたりします。個人のプライバシー保護を理由に一私人の情報を非開示とするというのとはまったく違う、権力者や企業の情報をそういった連中の意向により隠したがる傾向が進んできているのは、本当に嘆かわしいことだと思います。
権力の裏側を暴く調査報道には、敬意を表しますし、本当に大切なことだと思います。ただ、同時に、それがどこに向けられるのであっても真実を探し出す調査報道は/記者は正義なのだと、記者の調査を制約するのはすべて間違いであるかのように言われるのであれば、素直に支持できないものを感じます。
澤康臣 岩波新書 2017年3月22日発行
第1章の「パナマ文書」をめぐる世界各国の数百名に上る記者たちの連携と調査の遂行、そして調査過程で裏切者が出ることなく秘密と解禁日が守られたことには驚きと感動を覚えます。
第2章の各国で記者たちが圧力と迫害を受けながら汚職や組織犯罪を暴く調査報道をする様子も、興味深く読みました。もっとも、この章でイタリアの記者が警察と協力し警察から情報をもらい捜査に配慮している様子を、肯定的に描いているあたり、イタリアの記者に「警察官も他の取材先と同様に扱う」、「我々は警察の広報係じゃない」(96ページ、97ページ)と言わせてはいますが、どうかなと思います。安倍政権の提灯記事を書いている日本の記者だって、聞けば公平・中立だの我々は政府の広報じゃないというと思いますけど。
第3章で、地方紙の記者やNPOの調査衝動を紹介していますが、ここでも、オレゴン州の「革新知事」だったゴールドシュミットについて政界引退後にかつてベビーシッターとして雇った14歳の少女と性関係を持っていたことを暴いて叩き潰し州議会議事堂の歴代知事の肖像画からも撤去させその功績と歴史を消し去った地元紙のスクープをほめたたえています(125~138ページ)。リベラル/革新の政治家をその権力から離れた後に叩く、タブーへの挑戦ではなく、より大きな権力・保守系政党の利益に沿う行動です。この「スクープ」の情報は、もともとゴールドシュミットの政敵の上院議員からもたらされたものです(127ページ)。その経緯を見ても、リベラル/革新勢力を叩きたい権力者・保守系政党の思惑とリークに記者が踊らされ操られたということではないのでしょうか。
日本で調査報道がやりにくい事情として、裁判記録の公開の程度が低いことが挙げられています。アメリカでは裁判記録の全体(提出された書面や証拠書類も含めて)がネットでダウンロードできるというのを聞くと世界が違うというふうに思いますし、私も裁判に限らず日本の個人情報隠しは行き過ぎの感があり違和感を持つところはあります。ただ、本来の意味での一個人の情報は、権力と戦うことなどほとんどなく弱い者いじめに血道を上げる三流週刊誌(あえて言わせてもらえば「週刊新潮」とか)が跋扈する日本の現状を考えると、公開に反対したい気持ちが強くなります。
裁判の関係者の名前が判例集で隠されるようになったのは、ネットでの検索が一般的になるころからではなかったかと思います。日本でも、以前は判例集に当事者や関係者の実名が記載されていて、図書館で紙媒体の古い判例集をめくれば今でももちろんそれを見ることができます。私の専門分野の労働事件では、古くから事件名は使用者企業の名前で呼ぶのが通例で、今でも多くの事件はそうやって事件名がつけられます。しかし、企業や役所は企業名を出すことを嫌がります。情報公開法で、個人の情報と並んで「法人情報」も企業の競争に影響を与えるなどとして公開対象から外されているのは、企業の意向/利益を最優先したものと思います。労働事件の事件名の分野でも、日本経団連が発行している判例雑誌「労働経済判例速報」では、大企業でなければ企業名を隠す傾向にあり、ほとんどの事件が「X社事件」「甲社事件」とされて事件名を付ける意味がなくなっています。エルメス・ジャポンなどの有名企業でも「X社」とされます。労働事件関係の判例雑誌で一番メジャーな「労働判例」(産労総合研究所)でさえ、判例時報が当事者を「ホッタ晴信堂薬局」と書いている事件を「甲野堂薬局事件」と表記したり、海遊館と報道されている事件を「L館事件」と表記したり、企業の意向を忖度し遠慮して匿名化を図ることが多くなっています。2016年6月に弁護士会の研修で私がコメンテーターとしてしゃべったのが第二東京弁護士会の機関誌に収録された(NIBENフロンティア2017年4月号)際にも、私が「海遊館の事件で」と言ったのが、勝手に「L館事件で」と直されてたりします。個人のプライバシー保護を理由に一私人の情報を非開示とするというのとはまったく違う、権力者や企業の情報をそういった連中の意向により隠したがる傾向が進んできているのは、本当に嘆かわしいことだと思います。
権力の裏側を暴く調査報道には、敬意を表しますし、本当に大切なことだと思います。ただ、同時に、それがどこに向けられるのであっても真実を探し出す調査報道は/記者は正義なのだと、記者の調査を制約するのはすべて間違いであるかのように言われるのであれば、素直に支持できないものを感じます。
澤康臣 岩波新書 2017年3月22日発行