Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

イタリア紀行(その2)

2013年10月05日 22時33分06秒 | 山行・旅行・散策
 とりあえず本日は旅行会社の日程表に記された訪問地を復元しておく。
 美術館の感想、町の印象などは別途再度アップする予定。

★23日(成田空港発)
 1.ローマ市内ホテル直行
★24日(ローマ市内観光)
 1.バチカン市国のサン・ピエトロ寺院(システィナ礼拝堂を含む)とバチカン美術館を見学
 2.サンタンジェロ城見学
 3.トレビの泉
 4.円形闘技場「コロッセオ」とフォロロマーノ見学
 5.夜の自由行動→ホテルの傍のスーパー見学、夜のスペイン広場・三位一体教会散策
★25日(ローマ→フィレンツェへ)
 1.イタリアの新幹線「イタロ」にてフィレンツェへ
 2.ウフィツィ美術館
 3.ドゥオモ
 4.洗礼堂
 5.ヴェッキオ橋
 6.夕食&夜の自由行動→サンタマリアノヴェッラ教会、夜のドゥオモと洗礼堂、メディチリカルディ宮殿、サンロレンツォ教会、サンタマリアノヴェッラ鉄道駅散策。
★26日(フィレンツェ→ピサ経由でヴェネツィア)
 1.革製品工場見学
 2.ピサのドゥオモ・洗礼堂・斜塔見学
 3.ヴェネツィアにて夕食
★27日(ヴェネツィア市内観光)
 1.サンマルコ広場、サンマルコ大聖堂、ドゥカーレ宮殿、ため息橋・新牢獄
 2.ヴェネツィアンガラス工房
 3.ゴンドラ乗船
 4.午後の自由行動→水上バスにてサン・ザッカーリア教会、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会と尖塔、コッレール美術館、ヴィヴァルディ博物館、アカデミア美術館
 5.夜の自由行動→リアルト橋、夕食
★28日(ヴェネツィア→ミラノ)
 1.V・エマヌエーレ2世アーケード、スカラ座、レオナルド・ダ・ヴィンチ像
 2.ドゥオモ
 3.スフォルツェスコ城
 4.サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会にてレオナルドの「最後の晩餐」
 5.夕食
 6.夜の自由行動→夜の中央駅-共和国広場散策、ホテル周囲1キロコースのウォーキング。
★29日(ミラノ市内→ミラノ空港)
 1.朝の自由行動→ブレラ美術館
 2.バスにてミラノ空港
★30日(ミラノ空港発)
 成田空港着

訃報

2013年10月05日 20時27分15秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 私のこのブロクにコメントをいつも投稿していただいている、「大納言様」のお母上が亡くなったとの連絡が大納言様ご本人からありました。大納言様の「如月より」というブログでは、野辺地の介護ホームに入所されていたとのことが綴られていました。
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 大納言様より「葬儀が終わり東京に戻るまでの間は、「如月より」のブログにコメントをいただいても返事ができない」旨、皆さんに伝えて欲しいとの連絡がありました。皆様のご協力をあわせてお願い申し上げます。


イタリア紀行(その1)

2013年10月05日 12時12分56秒 | 山行・旅行・散策
 私はヨーロッパに行くのは始めてである。13時間近くも飛行機の中でじっとしているのも経験がない。
 今回の飛行コースはシベリア上空を経由するということだけは聞いていた。しかし成田空港を離陸してから飛行機は北上したのだが、それ以降は窓からは雲しか見えず窓もまもなく閉めるようにいわれて、私は持参の文庫本(「夏目漱石を読む」(吉本隆明、ちくま文庫)に熱中してしまった。
 実は、帰途もこの本を読むつもりであったが、読み終えてしまったので、もう少し読むのに時間のかかるものを選択すればよかったと反省した。当初は「荘子」の外篇ならば読むのに時間もかかるから手ごろかと思って購入する予定だったが、新しく購入仕様と思っているうちに買いそびれてしまっていた。これは痛く反省。

 さて読み終わってから飛行経路が映し出されている機内の画面を見ると、ユーラシア大陸のほぼ北辺、北極海に接するように西に飛行している。本を読み終わった時点ではウラル山脈の東側、オビ湾の南端あたりである。機内は照明が落とされ、閉められている窓を少し上げて覗いたが、雲に覆われ地上は見えない。しかし外は明るい。機内の画面では高度は37000フィート、約11300メートルをずっと保っている。雲を眺めながら次のようなことを、機内モードにしてある携帯電話のメモに書き込んだ。

 眼下一面、雲が敷き詰められているが、外はとても明るい。山の頂から見下ろす雲海よりもさらに、上から見下ろしていることになる。
 雲の表情は雪原を見下ろすのに似ているが、それより遙かに平らで広大である。日本の上空を飛ぶ飛行機からの光景よりずっと果てしない。雲の表面の小さな紋様が心地よい。ところどころ雲の切れ目から緑色ないし茶色の大地がのぞく。川の蛇行がその間をうねっていく。
 ロシア連邦と名を変えた国の北辺、シベリアといわれるこの地は白く明るいけれども、たたきつける雪を運ぶ風が咆哮する果てしない平原という、自然地形のイメージが私の頭の中に出来上がっている。同時に、ロマノフ王朝の帝国期から「社会主義ソビエト時代」にいたるロシアという国家の暗部を背負った暗い歴史のイメージがこびりついている。「社会主義」という明るい理念と、その裏に抱え込まれた闇の存在、私はその両極の世界を書物の中で彷徨してきた。
 実際に足を踏み入れて体験したこともないのに、限られた文学と政治の言語で語られたものだけでイメージが出来上がり、そして編集された映像でしか見聞きしたことのない世界。しかしそれは人に多大な影響と巨大な想念を与えてきた。それは近・現代史に計り知れない光と影を投げかけてきたし、今も解けない謎を投げかけ続けている。その謎から逃れることなどできないとも思える。

 ふと私は狭い雲の間に、この12000メートルの上空から、緑色と茶色の大地に直線で区切られた一画を見つけた。道路か畑か牧場の区画を示す線に見えた。あるいはウラル山脈を東西に挟んで広がる油田・ガス田のための施設なのか、まったくわからないが確かに人工的な線である。人間が大地に残した深い爪痕に見える。しかし建物・家らしきものはまったく見えない。
 「自然の造形か」とも疑ったが、再び雲の切れ目に同様の線を見て人工物だと確信した。飛行機は相変わらず北極海とユーラシア大陸の境、北極圏の南限を飛んでいいる。機内の画面ではノヴァヤゼムリヤといわれる島からウラル山脈に連なる地形をようやく越えて、ヨーロッパ・ロシアに入っていく。とはいえ、北極圏沿いである。
 こんな北辺の荒野に、明かに人の営みの結果であるものを見て少し興奮した。人家は見当たらない。雲の切れ間の狭い視界でしか判断できないが、道路らしき線は複雑に互いに関係を持つもののようにうねりながら存在している。しかし交わるようには見えない。不思議な関係を維持している。しかも何らかの意志を持つもののように地形に沿って存在している。現代の直線的な道路ではないようで、地形とつかず離れずにうねっている。低い丘の上の尾根筋から川沿いに伸び、再び尾根に上りということを繰り返しながら続いていく。重機の無い時代から使われてきたような、人力による痕跡と思える。
 ロシアという北辺の大地の人々の執念を高度12000メートルから突きつけられた気がした。しばらくこの荒野の人工の痕跡に見入った。この長い人工物のを作り上げた人々のエネルギーに圧倒される。現代の人工物ならば多分直線的で、自然地形とは相容れない不思議な痕跡に見えるはずである。どの時代からのものなのであろうか。
 結論も出ない、私の乏しい想像・推量を繰り返すうちに、やがて飛行機はスカンジナビア半島の付け根から南転し、バルト三国の南辺をかすめてポーランドへ向かう頃には、茶の大地は姿を消し、緑豊かと思われる平原に変貌し、人家も見えてくる。同時に緊張を続けた気持ちにゆとりが出た。道路らしき人工の施設だけでなく、多分今も人の息づかいがあるはずの人家が明瞭に見えてくると、心の緊張が解けていくようだ。まるで人を眼下に直接視認したように錯覚する。

 ここまでで携帯電話のメモは終了。あとは着陸後に荷物を待ちながらのメモ。

 空から眺めると、日本もヨーロッパも人が集中して住むところは自然地形で見れば、当たり前のことであるがまったく共通している。山と尾根、谷と川、南斜面と北斜面、分水嶺と尾根筋、繰り返し現れるこれらの地形を見ていて飽きることはない。そして人工物としての畠や人家や道路の繰り返しも見ていて飽きることはない。
 私は、アメリカ軍が日本の各都市を爆撃したとき、ヨーロッパの戦争で交戦各国の空軍が各都市を爆撃したとき、アメリカ軍がベトナムを爆撃したとき、むろん日本軍が中国で行った爆撃はもっと高度は低かったことも忘れてはならない‥等々のこの1万メートルからの都市の景色は肉眼ではどのように見えたのか、明確なイメージはなかった。
 しかし私は今回のこの雲間に垣間見えた景色からかなり愕然とした。人間、想像力がそれほど逞しくなくても、肉眼で直にこの高度でも地上に住む人間の息づかいは伝わってくるのである。それは人家が地形に沿って点在する農業地帯だけでなく、町や都市でも共通な減少である。グーグルアースで見る景色よりも、もっともっとリアルに人の息吹を感じるのだ。このような状況で、爆弾投下のスイッチを押す人間の行為に今さらながら私は慄然とした。私は個人の責任を云々しているのではない。戦争というものが強いる力の強さ、怖さはどんな場合でも認識するたびに慄然とする。これには慣れや麻痺というのはない。あってはならないはずだ。慣れや麻痺はなく、毎回思い当たることがあるたびに慄然とする、そのことにひょっとしたら人類の唯一の救いはあるのかもしれない。

 飛行航路は残念ながらヨーロッパアルプスの上ではなく、オーストリアとハンガリーの国境に近いところ、西欧と東欧の境辺りを南下してアドリア海に出る。イタリア半島のアペニン山脈というよりも丘陵地のような地形を越えてローマに達した。
 この間、ひたすら窓の外を眺めて飽きることはなかった。