
先ほどから横浜美術館で開催されている「横山大観展」の図録を見ている。横山大観という画家の特徴や見所というのはどういうところなのか、一番肝腎なところがわからずに悩んでいる。この画家の予備的な知識がまったくないなかで、幾点か心に残った作品はある。しかし2回見に行ったにも関わらず、「これがいい」という強い印象を持った作品がなかった。あるいはほのぼのと思い出すたびに「なるほど」とうなずく作品がない。
しかし全体として、忘れてしまってはいけない画家のようだ、という印象が残っている。このところが気になるのだ。
名前が有名だからというのではないと思う。有名な画家でも、まったく気にかからなかったり、印象にのこらなくてそのまま自分でも忘れてしまう画家がいる。それはそれで私の鑑賞眼がないのだと、アキラメもつく。
そんなことで、ネットなどで「横山大観」と検索すると、明治期以降の日本画の革新に大きな足跡を残した画家として、また「朦朧体」という技法を確立し、「伝統的な線描を用いずに色彩のみによって濃淡の調子を整え,空気や光線を表現する新しい描法を生み出し」たことになっている。「菱田春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する」などと記述されている。
さらに絵画の世界以外では、かなりの国粋主義者であり、1942年とする大日本美術報国会が発足と同時に会長に就任し、戦時中の美術統制の頭目として扱われている。また戦犯容疑者でもあった。
このような経歴からは、ちょっと私などは引いてしまうところもあるが、かえって作品の魅力というのは何なのだろうかと気になるのである。
図録にもどってみると、今回の展覧会は、初期のころから昭和初期の時代までを中心とした展覧会であるから、画業の前半にあたる時代に絞られていることが記されている。
幾度か図録を見ているうちに、ようやく気付いてきたことがある。どうも私は中国風の絵については、共感できていない。たとえば老子や寒山拾得、達磨などや、後赤壁、虎渓三笑、焚火など中国の人物を大きく描いた顔の表情に大きな違和感がある。あの笑い、何に笑っているのか曖昧な表情にはどうしても強い違和感を持つ。ついていけないなぁ、という感じである。画家の表現したいものが何なのかまったく理解できないと感じる。あまりに実際の人物像からかけ離れている。奥行きのある人間性がまったく感じられない。
しかし、風景画となると俄然違う感想が浮かんでくる。また日本の画題に出てくる人物やインドの印象を描いた人物、観音図などは表情が生きている。観音像などとても人間的な造形で親近感が沸く。どうしてこうも人間を描いて差が生ずるのだろう。そしてさらに人間が大きく後退して風景・点景だけになると、この画家の真骨頂が出てくるように感じた。


ここに掲げたのは、有名な「瀟湘八景」の「山市晴嵐」と「漁村返照」である。前者の風景は視点も技法上も革新的といわれるのがわかるが、後者に出てくる談笑する人物も子どももとても安易な描写に見えてしまう。
夏目漱石はこれが出品された第6回文展に触れて、「気の利いた様な間の抜けた様な趣があって、大変に巧みな手際を見せると同時に、変に無粋な無頓着な所も具えている」と評したことは「夏目漱石展」の中ですでに記したが、私もなんとなく漱石の評の意味を私なりに理解できたのかな、と思う。頓珍漢なのかもしれないが、漱石は人物の描き方に「無頓着」と感じたのではないかと思う。どうであろうか。さらに付け加えるならば、「漁村返照」の黄色の使い方は西洋画の配色の模倣に見える。風景が様式的なイメージにとどまっているように見える。
安易な人間の表情に見えてしまう、というのは人間把握に対する違和感なのか、それとも「写生」というものの評価なのかはわからない。多分風景は写生を基にしたものの再構成であろう。画家のさまざまな工夫が結実したものに見える。しかし人物、特に中国に題材をとった人物は多分想像上の産物である。同時にこれまでと違う人物像を造形することにこだわって、かえって類型化した表情になってしまったとさえ思う。インドは訪れたことがあり、写生をしている。中国の人物も風景も画家にとっては日本画の題材のあくまで伝統的な想像上の題材にとどまっていたのではないか。また歴史上や逸話上の人物もあくまでもその物語上の人物像でしかなかったはずである。これが私の違和感の根拠のような気がする。風景画通俗的に見えてしまうというのも同じなのかもしれない。
ようやく私なりの横山大観という画家の絵に対する接し方に気付いたようだ。
この次は風景画で気に入ったものについて触れてみたい。