Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

中原中也の詩「骨」

2016年06月28日 23時32分50秒 | 読書
 高校生の時に印象に残った中原中也の詩がある。これも「在りし日の歌」におさめられている。これは読んでそのまま意味は通じる。難しいというか、判らなかったのは第2連にある「雨を吸収する」の意味。「光沢もない」「風に吹かれる」「幾分空を反映する」というから骨の表面のことかと思っていると唐突に「雨を吸収する」と骨の内部構造に言及するあたりがわかりにくいと思っていた。
 しかしこの詩の持つ言葉のリズムはとても気持ちがいい。このリズムが私には中原中也のもつ詩の最大の特徴だと思っている。

  骨

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ
ヌックと出た、骨の尖。

それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある。
みつばのおしたしを食つたこともある、
思へはなんとも可笑しい。

ホラホラ、これが僕の骨--
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?

故郷の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて
見てゐるのは、--僕?
恰度立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。

岩波書店「図書7月号 」から

2016年06月28日 20時17分09秒 | 読書
 本日岩波書店の図書7月号が夕方にとどいた。午後からの打合せと所用が終わり、ちょうど家に付いた時に郵便局の配達人が直接私に手渡しをしてくれた。こういう事態は現役の頃には無かったことで、退職後にあらためて配達してもらえることのありがたみと、直接手渡されるということの嬉しさが湧いてきた。人との接することで、あらためて制度というものの重みをいろいろな場面で実感する。このような制度が働く人の労働条件の悪化に伴って希薄になっていくことや、「愛想」の強制による形骸化、末端の職員への責任の押し付けが違和感として私には敏感に伝わってくる。
 さて先ほどまでに読んだ記事は、
「偏光板」        伊知地国夫
「死の再発見」      二ノ坂保喜
「理解できないことども」 高村薫
「よい眺め」       三浦佳世
「邂逅への衝動」     若松英輔
「大岡信と和歌の伝統」  池澤夏樹
の5編。
 特に「死の再発見」と「理解できなことども」「よい眺め」の3編は心に残った。
 「死の再発見」では「在宅ホスピス」20年の実践に裏打ちされた重みを感ずる文章であったと思う。在宅での死が1970年代に病院死が在宅死を追い越したこと、筆者の考える「良き死」は、
1.それまでどういう生き方をしてきたか?
2.家族や友人と良い関係を築いてはきたか?
3.悔いのない介護ができたか?
4.最後がおだやかだったか?
5.思い出を残す。
と定式化できるのではないか、ということが心に残った。
 その中で「(死の体験は)息子や娘はもちろん、孫たちにとって「死の体験」「死への準備教育」として重要な意味を持つ」ということには全面的に賛同したい。
 以上の指摘は私も実感したし、確か1970年代に「病院死」「自宅死」のことは当時もニュースになっていたと思う。
 実は私の父親の死の時、私の娘はまだ小学校4年生であった。娘に「死」というものを身近に体験させることが出来たことについては、私は父に感謝している。その体験をもう20数年たった今もすっかり成人した娘ではあるが、心に刻んでおいて欲しいと今でも思っている。



 高村薫氏の「理解できないことども」は、毎回ではあるが、そのままここに貼り付けておきたい。


 三浦佳世氏の「よい眺め」はモランディの試みを丁寧に解説してくれている。いつもながら勉強になる。

 残った記事では、
「終焉のない「戦後」」  M・モラスキー
「永遠の未完」     小川 隆
などについてはこれから眼を通す予定。


中原中也の詩「春の日の夕暮」

2016年06月28日 12時02分55秒 | 読書
 ふと何の前触れもなく中原中也の詩をまた読みたくなった。
 「山羊の歌」の冒頭に「春の日の夕暮」という詩が掲載されている。

 春の日の夕暮

トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮は穏やかです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は静かです

吁! 案山子はないか--あるまい
馬嘶くか--嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
従順なのは 春の日の夕暮か

ポトポトと野の中に伽藍は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが

瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
自らの 静脈管の中へです


 高校生のころ、この詩を読んでまったく理解できなかった。「トタンがセンベイ食べて」という最初の一行でもう立ちどまってしまった。イメージが全然わかない。意味が頭の中で再構築できなかった。そのまま詩集を読むのをやめてしまった。しかしいくつかの中原中也の、「汚れちまった悲しみに‥」などいわゆる有名な詩は好んでいた。国語の教科書や参考書に出てくる詩にはずいぶんと惹かれたものである。
 大学時代にも文庫本の詩集を買ってときどきめくって読んでいた。しかしまだどこか違う世界にある詩のようで靄の中をさまよったいるようだった。
 手元の資料だと1978年に「吉本隆明歳時記」が出版され、中原中也を取り上げてこの詩の解釈をしていた。私はこの論がとても気に入った。そして中原中也の詩がすっと頭の中にはいってくるようになった気がする。
 「景物が植えた心を満たそうとする素因として働いてしまう」「この詩人のうす靄のかかった温暖で静かな春の夕方の気分的イメージだけがあって、言葉は行きあたりばったりでいきなりはじまっている。「トタンがセンベイ食べて」は音連鎖の気持ちよさからきた意味のない枕言葉としてみてもいい」からはじまるこの論で私はようやくこの詩のイメージを掴むことが出来たように感じた。
 自分の周りの景物がふと頭の中にあるイメージをつくる。それが心象風景として次のイメージをさらに呼び込む。次に外界にそのイメージが溶けだしていくことで最初のイメージの変容と飛躍がもたらされる。周囲の景物と、それに触発された自己の心象風景とが浸食しあってあの独特の世界を作り上げるのか、と思う。
 中原中也は、4連の詩をつくり、起承転結をきちっとつくる人である。特に転と結が嵌らないと公表されない未完として残されたようだ。しかしその未完の詩の中にも私なり気に入ったものはたくさんある。

 詩がふとわかったつもりになる時というのは、不思議なものである。ほんの些細なきっかけやことば、心持ちの違いでそれが起きる。ただしそれはあくまでも「わかったつもり」である。「わかった」とは程遠いと思っている。

 この詩、冒頭の「トタンがセンベイ食べて」と最後の「瓦が一枚 はぐれました」まではイメージの連鎖として飲み込める。しかし最後の1行の「自らの 静脈管」が作者の身体なのか、生命体になぞらえられた都市のことなのか、未だにわからない。「自ら」が作者なら「私の」の方が私にはスッキリスのだが‥。都市という生命体の持つ「静脈管」というイメージの飛躍として読みたい気分の方が大きい。