「国吉康雄展」の構成は「少女からの手紙」「国吉のアトリエ」「旅立ち」「デビュー」「帰国」「牛を描く」「ヨーロッパへ」「静物画が持つ意味」「ウィリアム・グロッパーの肖像」「ユニバーサル・ウーマン(戦争画)」「心にある風景」「クラウン」「クラウン」「修復プロジェクト」の14のコーナーからなっている。

「少女からの手紙」というのは1946年、画家が戦後すぐに描いた作品の題「少女よお前の命のために走れ」からつけられたもの。この展覧会の展示がこの題の問いかけが何を意味するのか、考えるためにさまざまな指摘・解説・仕掛けをしている。答えは鑑賞者に任されているが、展覧会の通奏低音のように会場にこの疑問が張り巡らされている。
私には少し煩わしかったし、自由に見せてほしい、という気持ちもあった。しかしこれはこれでひとつの展覧会の在り方だと想えなくもない。
私には16歳でアメリカに渡り、そこで自由なアメリカという側面のとおりの「成功」を収めつつも、1930年代以降のナショナリズムの台頭と移民と奴隷の国家が抱える人種差別の激しい嵐に巻き込まれた画家の心象風景と私は捉えることもできると思っている。
そこまで画家の現実に即して解釈しなくとも、巨大なものに追われ、しかも逃げる先には嵐の前のような不気味な空が広がる風景は、現実生活の厳しさが反映されていると見るのは間違ってはいないと思われる。不安で不条理な時代を暗示している作品であろう。

次の作品は翌年の1947年の「私の遊び場はここ」。前作と同じような少女が右上に描かれている。少女の視線の先の空は少しだけ明るい。そして少女は得体のわからないものに負われたり、驚いたりしてはいない。どちらかというと観察者ないし傍観者的である。
私は左下のめくれた布のようなものに黒い丸と弾痕の跡。それは墓標のような十字形に組まれた棒に掛けられている。図録では黒い眼玉と記しているが、明らかにこれは日の丸の赤い丸を黒く描いたものであろう。弾痕によりこれが日本の軍人の墓標、すなわち日本という国家の墓標とも思われる。黒い日の丸を遠くから眺める少女が、絵を描くキャンパスの枠にぶら下がっている。あるいは描かれた少女なのかもしれない。この少女は国吉康雄の分身であると私は解釈している。黒い日の丸の右下に右に向いた左手が赤く描かれている。画家が日本から脱出した先のアメリカを指していると思う。
描いたものについて画家は何の説明もしていないようなので、何が描かれ、何を象徴しているかは鑑賞者にすべて任されている。二枚目の作品の視点はあくまでも「戦勝国アメリカ」から「敗戦国日本」を見下ろしている。それは作者と戦前の天皇制ファシズムの国、あるいは敗戦国日本との間の深い溝を暗示しているというのは穿った見方だろうか。
その3へ続く。

「少女からの手紙」というのは1946年、画家が戦後すぐに描いた作品の題「少女よお前の命のために走れ」からつけられたもの。この展覧会の展示がこの題の問いかけが何を意味するのか、考えるためにさまざまな指摘・解説・仕掛けをしている。答えは鑑賞者に任されているが、展覧会の通奏低音のように会場にこの疑問が張り巡らされている。
私には少し煩わしかったし、自由に見せてほしい、という気持ちもあった。しかしこれはこれでひとつの展覧会の在り方だと想えなくもない。
私には16歳でアメリカに渡り、そこで自由なアメリカという側面のとおりの「成功」を収めつつも、1930年代以降のナショナリズムの台頭と移民と奴隷の国家が抱える人種差別の激しい嵐に巻き込まれた画家の心象風景と私は捉えることもできると思っている。
そこまで画家の現実に即して解釈しなくとも、巨大なものに追われ、しかも逃げる先には嵐の前のような不気味な空が広がる風景は、現実生活の厳しさが反映されていると見るのは間違ってはいないと思われる。不安で不条理な時代を暗示している作品であろう。

次の作品は翌年の1947年の「私の遊び場はここ」。前作と同じような少女が右上に描かれている。少女の視線の先の空は少しだけ明るい。そして少女は得体のわからないものに負われたり、驚いたりしてはいない。どちらかというと観察者ないし傍観者的である。
私は左下のめくれた布のようなものに黒い丸と弾痕の跡。それは墓標のような十字形に組まれた棒に掛けられている。図録では黒い眼玉と記しているが、明らかにこれは日の丸の赤い丸を黒く描いたものであろう。弾痕によりこれが日本の軍人の墓標、すなわち日本という国家の墓標とも思われる。黒い日の丸を遠くから眺める少女が、絵を描くキャンパスの枠にぶら下がっている。あるいは描かれた少女なのかもしれない。この少女は国吉康雄の分身であると私は解釈している。黒い日の丸の右下に右に向いた左手が赤く描かれている。画家が日本から脱出した先のアメリカを指していると思う。
描いたものについて画家は何の説明もしていないようなので、何が描かれ、何を象徴しているかは鑑賞者にすべて任されている。二枚目の作品の視点はあくまでも「戦勝国アメリカ」から「敗戦国日本」を見下ろしている。それは作者と戦前の天皇制ファシズムの国、あるいは敗戦国日本との間の深い溝を暗示しているというのは穿った見方だろうか。
その3へ続く。