昨日のコースは平塚市の須賀港から旧八王子街道を探りながら歩いた。厚木市内で一部道が不明なため遠回りをしたり、昔から街道に面して存在したと思われる寺社を覗いたりして思ったより時間がかかり、歩数もかなりかかった。
さらに相模原市内の事前調査も不十分だったこと、突然の豪雨もあったことで、新道を辿ってしまった。
平塚駅を8時に出発したが、橋本駅まで明るいうちにたどり着くには平塚駅を6時前には出発しなくてはいけないし、道に迷うゆとりはないことが分かった。
今回この道を辿ろうと考えたのは、古代の朝廷の指示で大磯の高麗山を中心とした地に入植したらしい高麗出身者が、再度朝廷に請われてか、逐われてか、今となっては不明だが、武蔵国(現埼玉県高麗郡)を新たに開発したとの伝承が埼玉の高麗神社に残されているとの話を聞いたことがある。
大磯の高麗神社は明治維新の時に政府の圧力で、高麗神社の名は好ましくないとのことで高来神社に名称変更され戦後のそのまま復元してはいない。埼玉の高麗神社にはそのような圧力はなかったのか、知りたいところでもある。またこの大磯・平塚の地域にそのような風習が残存していないかも知りたいとは思っている。その内資料も探してみたい。
埼玉の高麗神社の付近まで、相模川の舟運も利用したと思われるが、ひたすら北上して埼玉の高麗神社までたどり着いた足跡をたどってみたい思った。
平塚市の須賀港は観光協会案内標識によると後北条氏の時から築かれたというから、それ以前からも相模川の河口にできた砂州を利用して栄えていたと思われる。あるいは古代から平塚近辺に国府が置かれたらしいが、その外交としての役割もあったかと思うのは、私のような素人の推論でしかないのかもしれない。東「海」道と云うからには港が無ければ成り立たない命名であるはずだ。
対岸にも須賀という地名が残っている。現在は茅ヶ崎市であるが、川の左右をまたいで同じ地名、村名があるというのは当時の人々の意識でもここは一体としての機能を持っていたと思える。学問的な裏付けなどないが、いろいろな想像は楽しいものである。
ここからしばらくは相模川沿いの道があるが、現在は工業団地となって「テクノ街道」と呼ばれている道路がある。トラックが行き交い怖い道である。たぶん工業団地の造成に伴い旧道は工場の敷地内に取り込まれてしまったと思われる。さらにそれだけではなく、当時の川の流域が今と違って頻繁に変わることを考えると固定した道として考えることはかなり無理がありそうである。ただし沿道の寺の存在を考えると少なくとも徳川時代には固定されていたとみなすことが出来そうである。
四之宮といわれた前鳥(さきとり)神社からは古代からこの道は固定されていたと思われる。厚木市に入る手前の無人の寄木神社で昼食。おにぎり2個(昆布と鮭)とつくね棒と野菜ジュースの昼食。
厚木市に入って、地図には大山街道との表示もあり、近世には大山街道と八王子街道とが重複していたらしい。まだ国道246号線を超えると旧道が途端にわからなくなる。金田神社のあたりから現在の八王子街道の東側を通るようなのだが、連生寺で旧道よりもさらに東側まで行ってしまって遠回りをしてしまった。ここで30分以上は時間をロス。山際神社にある案内標識で旧道が表示されていて助かった。
依知(えち)神社で厚木市から相模原市に入るが、ここで18時45分。田名(たな)で雨が降り始め、しかもすっかり暗くなってしまい、地図と現在位置の特定ができないうちに新道に入ってしまって、ガソリンスタンドで雨宿りをさせてもらった。この田名までは歩道もところどころしかない道を暗くなってたどるのはとても怖い。トラックが行き交うだけでなく、信号を渡る時も右折車が人の渡るのを想定せずにスピードを出して曲がってくる。とても怖い思いをした。本当は田名で再び旧道を行かなければならなかった。いつになるかは今のところわからないが、次回はここから旧道を八王子まで歩きたいものである。ただし橋本駅から先もまだよくわからないところがある。