
国吉康雄の名はいつからだったかは覚えていないが、大分昔に聞いていた。解説書の写真だけでなく、実際に作品をいくつかはどこかの展示で見た記憶もある。
国吉康雄は1889(M22)年、岡山市に生まれ、16歳で移民としてアメリカに渡り、掃除夫などをしながら美術を学び、アメリカ美術家会議などの役員を務め美術家の権利の運動の先頭に立った。また「民主主義のための日系人民主義美術協議会会長に就任し、日本の軍部批判の声明や対日戦ポスターなどの作成なども行っている。
戦後は芸術家組合の会長にも就任し、アメリカの市民権獲得完了前の1953年63歳の時に胃がんで亡くなりアメリカに埋葬された。アメリカ人として生涯を終えることをのぞんでいたと推察できる。
展示目録を見ると、ほとんどが「福武コレクション」となっている。その中で「幸福の島」(1924、東京都現代美術館)、「毛皮の女」(1930、横須賀美術館)、「イーグルズ・レスト」(東京国立近代美術館)、「ウッドストック風景」(1917)ならびに「人体デッサン5点」(1912)は「目黒区美術館」の所蔵である。
目黒区美術館では所蔵品店を見ていないので、横須賀美術館か都美術館、国立近代美術館の3館で見た記憶があるのであろう。
絵のほかに記憶は藤田嗣治との関係である。戦争画の責任を取って(取らされて)日本からニューヨークに渡った藤田嗣治の展覧会をベン・シャーンと国吉康雄が会場の入口で展覧会のボイコットを訴え、また「フジタはファッショ画家」という抗議声明を新聞に公表していた、との記載を私は読んだ記憶がある(近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」)。
藤田が日中戦争中にパリから日本に帰国し、戦争の時代を「新たな戦争画の創出」に向け軍部の要請で「皇国の画家」として戦争画にのめり込み、戦後「日本に捨てられた日本人」としてパリに「レオナルド・フジタ」として亡くなる。
一方国吉康雄は移民として下層のアメリカ社会に身を置きながら新進画家としてアメリカで注目され、日中戦争・太平洋戦争中も日本には帰らず、アメリカ社会での日本人排斥運動や「敵性外国人扱い」に抗し、アメリカ社会に溶け込むための努力をし、日本の帝国主義に反対する活動を続けた国吉康雄は「日本を捨てた日本人」であったかもしれない。
今の時代から見れば、それは立場が違うとはいえ同じ「戦争画」である。政治のプロパガンダとしての「美術」に従事したことになる。
ただ両者ともにそれが「本心」なのか、というところがなかなかわからない。謎が多いといえる。国吉康雄ももともと芸術家の地位向上に関心があって社会活動に積極的にかかわったのか、アメリカという内部では排他的で抑圧的な構造を強く持つ社会で生き延びるために対日戦争の積極的な推進者として振る舞ったのか、判らないところがある。
しかしこのような政治的な枠組みを取り払って、政治の代理戦争のような対立をすっぽりと捨て去って作品を見てみたいという思いもある。
また、今回国吉康雄が写っている写真を見て、あまりに藤田嗣治とよく似たポーズ、表情を持つことに大いに興味をそそられた。
次回、惹かれた作品を上げてみたい。
なお、図録は972円と安い。上質な紙だが光沢紙ではない。それは悪くないことなのだが、残念ながら全作品が収録されているわけではなかった。これはとても残念であった。購入してから展示目録と突き合わせて図録に収録されている作品が少ないことに気がついた。いくつかの気に入った静物画も収録されていない。またポストカードも種類が少なかった。著作権や収蔵側の移行、採算などの課題など制約はあるのだろうが、残念な気がする。

