Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ベートーベン「交響曲第7番」、モーツアルト「交響曲第25番」

2016年06月10日 22時47分07秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 夕食後は、NHKFMで、ベートーベン「交響曲第7番」とモーツアルト「交響曲第25番」を聴いた。指揮ネヴィル・マリナー、管弦楽はアカデミー室内管弦楽団。
 ベートーベンはヴァイオリン協奏曲以外の曲を聴くのは久しぶりである。ベートーベンの交響曲、とりわけこの第7番は何しろリズムと強弱のコントラストが命である。それが好みはいろいろあって、どれが「正しい」かはわからないが、この演奏はそれが極めて強調されている。ここまで誇張されると私はちょっと引いてしまう。聴き方によってはこれぞベートーベンなのかもしれない。
 モーツアルトの交響曲第25番は、モーツアルトのト短調である。いかにもモーツアルトらしいト短調である。ト短調の交響曲というと多くの人は第40番を思い浮かべるが、この25番もまた魅力的な曲である。
 第1楽章の出だしのシンコペーションからまず圧倒される。最後までつい聞き入ってしまう曲である。これもベートーベンの第7番のように極めてコントラストの強い演奏であったと思う。モーツアルトの曲にここまでしていいのかな、と思いながらもメリハリの効いた冒頭から引き込まれたことは確かである。放送時間の制約から第3楽章が省力されたのは残念。
 私の好みとしてはもう少し抑制のきいた演奏の方が好みである。

伊藤若冲「蒲庵浄英像」

2016年06月10日 18時28分15秒 | 読書


 最晩年、亡くなる3年前の1797年の作品である。同年にはあの「象と鯨図屏風」、翌年には前回取り上げた「売茶翁図」を描いている。
 晩年の水墨画は自由奔走、そしてこれ見よがしの技巧や細部への執拗ともいえるこだわりが一歩後ろに引いた上での楽しさを感じる。「象と鯨図屏風」も奇想といえば奇想だが、角がとれた自在さを感じる。嫌味が無いといったほうがいいかもしれない。
 この作品、初めはとてもアンバランスに感じてそれがこれまで取り上げてこなかった理由だった。アンバランスというのは、着物から出た頭部の線が細くそして丹念な描写にこだわっている。顎を引いた厳格そうな姿勢、顔の深い皺、相手を見据えるするどい目の表情、きりっと結んだした意志の強そうな唇、節制を持続しているような贅肉の無い頭部。これはなかなか一筋縄ではいかない厳しい人物であることが伝わる。
 ところが、袈裟というのであろうか衣服の線は頭部の輪郭線とは反対に太い筆で勢いよく簡潔に描いている。指先などは楕円形ですっかり省略されている。
 描かれているボリュームからすると縦長の三角形の頂点が頭部になるが、頭部の線が細いので、三角形の下三分の二のボリュームが異常に重い。縦長の分だけ頂点がいっそう軽く見えてしまう。
 このアンバランスばかりがめについて今まで取り上げなかった。
 ただ数日前に、座っている敷物に目がいった。この敷物、座布団ではない。熊笹のような白い隈取と鋭い葉が勢いよく、ただし丹念に描いている。この敷物を見ていたら、描かれた人物の強い意志がこの敷物によって象徴されているかのように感じた。
 それでも構図上のアンバランスは気にはなるが、この敷物の存在によってこの作品が禅宗(黄檗宗)の頂相というなの肖像画として成立しているのかもしれないと思うようになった。
 このような構図を選択したり、技法を使った根拠は未だにわからないが、着ているものまで頭部のように描いたとするとそれこそ鑑賞するのもつらいほど、付け入るスキのない人物像になってしまう。逆に頭部まで着ているもののように描いたらしまりのない人物表現になったかもしれない。そういえば着ている物の色も上部よりも下半身の方が色が濃くなっている。グラデーションにこだわったのかもしれない。
 敷物がやはり頭部と着ている物の描写の差を埋める接着剤かもしれないと思っている。しかしもっと何かを感じなくてはいけないのかもしれない。
 賛は描かれた蒲庵浄英自身のもので、慣例に従い左から読むのだそうである。図録の解説には読み下し文が無いのでまだ読んではいない。しかし字体から見る限り、厳格で曲がったことが出来ない、人にも自分にも厳しい人格であるように思える。まさに作品の頭部の描き方から受け取る印象そのものではないだろうか。若冲はそれを描くことに成功したと思う。
 そういえば、1798年の売茶翁図も頭部は細い線で詳細に描き、衣は太い線で大胆に描いていた。共通する技法であることにも気がついた。

      

モーツアルト「ピアノソナタ#7、#8、#9」

2016年06月10日 10時34分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 モーツアルトのピアノソナタ第7番から第9番までは、1777年(21歳)から翌78年(22歳)にかけて、パリへの旅行に合わせて作られたことがはっきりしているようだ。
 #7と#9がハ長調・ニ長調なのに比べて#8はイ短調。モーツアルトの短調は悲劇的な曲といわれるが、確かに短調の曲はとても特徴がある。しかし実生活とは特に脈絡のある関係性はない。昔は母親の詩や孤独感などとの実生活譲渡の関連の解明に重きを置いた解説、研究が盛んにおこなわれたが、今の時代はそのような関係性からは解き放たれている。喜ばしいことである。
 私はこのモーツアルトの短調の曲は好きなものが多い。この#8の曲も聴いたことのある人は多いと思う。旋律も覚えやすい。
 #7、#9はとても明るい感じである。この時期、モーツアルトの曲は明るくのびやかである。

 例によって内田光子のエッセイが収録されている。
「音楽の楽しみ方はいろいろある。弾く楽しみは格別であるが、聴く楽しみが第一である。また譜面を読むのは実に楽しい。音楽を聴くと楽譜を見てみたくなるものである。」
「聴く、読みながら聴く、読むの3種類のちがう感覚を知るのもまた楽しい。」
「どんなにわかったつもりになっても誤解の可能性は無限にある。そして楽しみの可能性も、これまた無限。」
 演奏家の言葉としてなかなか面白い。実は私も譜面を見ながら聴くのが好きである。譜面だけ見る楽しみも好きだ。しかし譜面だけ見てもわからない曲、旋律も思い浮かべられない曲も多い。内田光子のいうように「譜面だけを読むのは、小説を読むこととパズル解きを一緒にしたようなものと思えばいい」と断定するほどにはまだまだ譜面を読みこなせない。