Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

天気予報はハズレ

2016年06月09日 22時50分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 天気予報はハズレ。どんよりとした雲に覆われた一日であったものの雨は降らなかった。今はうす曇り。比較的高いところにある雲の間から火星や木星、そして月齢4.3の細い月が見える。月は今は雲の向こう。かろうじて弓のように張った月の形が判別できる。
 雲の動きは結構速い。

 本日は結局出かけることもなく、だらだらと過ごした。15時過ぎに眼科に行って緑内障の点眼薬を処方してもらい、知覚のコンビニで牛乳を購入して帰宅。不思議なもので、家にいるとただただ眠い。1時間ほどの昼寝までしてしまった。時間を有効に使ったかというとまったくその反対。私はどうも家にこもっていると結局は読書も何もしないナマケモノの近い生活になる。もっともブログの記事は何とか3つ書いたが、その内一番長いもの(港の見える丘公園の薔薇)は昨晩にほぼ出来上がっていたものである。
 明日は晴れて、気温も27℃と高くなるという。本日は雨という予報を信じ切って何もしない予定だったが、さて、明日は何をしようか。少し体を動かして汗をかくことを考えなくてはいけない。いつものコースで2時間ほどのウォーキングがお金もかからずいいかもしれない。


「鮎川信夫と「荒地」展」(神奈川近代文学館) 補足

2016年06月09日 18時07分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 いつもコメントをいただいている通りがかり人様がコメントで戦中日記のことに触れている。私もこれについての感想を記そうとしていて、忘れてしまっていた。

 4メートルを超える和紙の巻き物数巻(展示されていたのは5巻だった。1巻は2メートルで短かった)にびっしりと文字がかかれている。
 スマトラ島から帰還後に傷痍軍人療養所の「酒保」で手に入れた巻物に家族への手紙を書いているように装いながら記載した日記が展示されていた。事細かく読むことはしなかったが、詩のこと、「荒地」の再刊のことなどを記している。
 詩や文学に対する執念とも云うべき思いが、その細かな字で埋め尽くされた長大な巻物に乗り移っている。この思索が戦後詩の運動を牽引したのである。
 療養所だから「酒保」が1945年でもまだ機能していたのかもしれないし、監視も弱かったかもしれないが、それでも貴重な日記がよく残されたものだと思う。
 「酒保」については大西巨人の「神聖喜劇」に出てくる。「酒保」が供えられなければならないが、ほとんど物が置かれていないで機能していないものとして描かれていた。

 「親愛なるX‥‥。詩について考えことは、とりも直さず僕たちの精神と君の精神とを結びつける架橋工作である。」(「Xへの献辞」)。この思いがこの戦中日記を貫いている意志の持続の根拠だと感じる。


今年のゴキブリ初見

2016年06月09日 12時47分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今朝いつものように寝室のカーテンを開けられて、いつもの時間に起こされた。明け方3時過ぎに寝たので眠くてしょうがない。ふらふらと便所に行き、いつものようにパジャマのままセキセイインコをベランダに出して部屋に戻ると、妻が床を誇らしげに指さしている。
 大きなゴキブリがあえなく昇天している。朝の紅茶を入れているときに、這いまわっているのを見つけて、殺虫剤を一吹きしたらあえなくひっくり返ってそのまま動かなくなったようだ。殺虫剤は昨年のものなので、薬が強烈になったのではなく、弱っていたのであろう。

 まるで猫が獲物を誇らしげに飼い主に見せに来るように、妻は戦果を私に誇示している。私は妻の飼い主ではなく、私が妻に飼われている状態に近いと自覚している。「そんなに誇るな」と心の中で思いつつも、ゴミ箱までの埋葬を求められそうなので、眠いのを理由に食後にそのままベッドに倒れ込んだ。30分ほど本当に寝てしまった。その間に妻は私への依頼を諦めて埋葬したようだ。

 毎年、梅雨の声を聞くとゴキブリが出てくる。私達は5階建ての建物の1階、玄関扉の郵便受けに隙間があると飛び込んでくる。新聞などが挟まっていると間違いなく入ってくる。そうでなくともピタッとは閉まらないのでもぐり込むことが出来るようだ。そして親の住んでいる3階まで上るとほとんどゴキブリは見かけない。そこまで飛ぶことは得意ではないようだ。たまに階段を這い登って来る根性のあるゴキブリもあるが、ごく少ない。

 梅雨の時期の紫陽花にカタツムリやナメクジは愛嬌はあるが、ゴキブリはどうしても好きになれないし、愛嬌は感じない。かわいそうではあるが、駆除の対象である。

港の見える丘公園の薔薇

2016年06月09日 10時10分22秒 | 俳句・短歌・詩等関連
         

 昨日神奈川近代文学館に行くために港の見える丘公園を通った。薔薇園の中は各種の薔薇が咲いていた。同時にビヨウヤナギや紫陽花など他の季節の花も多数咲いていた。
 薔薇は多くの人が、大きく丸く盛り上がった八重で深みのある赤い薔薇を好むようだが、私は一重の薔薇、あるいは八重でも淡い朱や黄などが好みである。今回は私の好みに近い薔薇はあることはあったが、もう少し落ち着いたものが見たかった。

★輸血点滴光背なして壺の薔薇    石田波郷
★薔薇剪るや深きところに鋏入れ   島谷征良

 輸血や点滴の管の向こう側にお見舞いの人が持ってきてくれた薔薇が花瓶に活けてあるのであろう。それは多分妻が持ってきたもの。それも輸血の赤い血のような薔薇なのではないか。命を長らえる輸血の血。それが生を与える像のように見えたのかもしれない。その管の向こうに光背のように控える薔薇の赤い花。命を長らえ、活力を得た一瞬の燃え上がる力を輸血の血の管と薔薇の赤に見つけたのだろう。生への渇望と意志を感じる句である。
 薔薇は、少し暗い葉が密生していないと立派な花が咲かない。しかも刺がある。花を得るためには、密生した葉と刺を避けながら、鋏を持った手を傷つけないように、葉の間に見える茎をめがけてそっと手を差し入れる。深い闇を探るように。華やかな薔薇が合わせ持つ深奥な闇、そこに踏み込まなければ薔薇の命をわがものとすることはできない。