Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は雨の予報

2016年06月08日 23時41分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 「鮎川信夫と「荒地」展」の感想が思った以上に時間がかかってしまった。引用した詩を書き写している間にワープロソフトが動かなくなり、半分以上は再度打ち直したことも原因である。また「宿恋行」にまつわる菱田春草の「砧」を図録で探したことも時間がかかった原因に上げることはできる。が、それ以上に私の能力不足でもある。
 鮎川信夫最晩年の吉本隆明との連続の対談は戦後の社会や政治や文学の到達点の捉え方で丁々発止のやり取りがあったが、私にはそれほそれほどのこだわりをどうして双方が持つのか、今ひとつピンと来ないまま、投げ出してしまった。私のこだわる思いに届く内容とは思えなかった。そんな違和感だけが喘鳴に覚えている。
 いつかもう一度対談を読みなおして、記載することがあるかもしれないとは思っている。

 明日は雨の予報。弱い雨とのことであるが、すくなくとも昼まで、ひょっとすると夜まで降り続くらしい。
 明日も予定はないが、緑内障の点眼薬が少なくなったので明日眼科に行くことにした。まだ1週間分くらいは残っているが、早目の方が気分的には楽になる。ただし約1か月分で5000円というのはつらいものがある。

「鮎川信夫と「荒地」展」(神奈川近代文学館)

2016年06月08日 22時08分35秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


         

 午後から港の見える丘公園にある神奈川近代文学館で「鮎川信夫と「荒地」展」を見てきた。
 第一早稲田高等学院在学中の19歳で「荒地」を創刊、戦争で友人の牧野虚太郎や森川義信を喪い、その傷を抱えながらスマトラ島北部で送られ傷病兵として内地帰還。敗戦後の1947年第二次「荒地」を創刊。
 「橋上の人」「死んだ男」「アメリカ」「繋船ホテルの朝の歌」などを発表し、戦後現代詩におおきな足跡と影響を与えた。「荒地」に寄稿した多くの詩人に私たちの世代も極めて大きな刺激・影響を歌えてくれた。
 吉本隆明との出会いは大きなエポックである。そして1979年の吉本隆明との対談「文学の戦後」は、1970年代以降の文学状況・政治状況をどう判断し、どう対応するか、多くの示唆を与えてくれた。その吉本隆明との親和性とそして決別に至る過程は1985年、死の前年の「全否定の原理と倫理」まで、私たちは固唾を飲んで見守っていたといって過言ではない。
 しかし同時に私はこの時期の鮎川信夫にも吉本隆明にも次第に違和感が強まって来ていた。世代のギャップが拡大していった。そのことについてはまだまだ私の中で書ききれないもの、決着しきれないものがあるので、今はまだ述べる資格はないように思っている。それこそ墓場に行くまでに表現できるかどうか、まったく自信はない。

 戦後すぐの鮎川信夫の詩は、私は吉本隆明の詩よりもずっと惹かれてきた。そこに戦争の影を色濃く、そして死者と向き合う姿勢に誠実さをかぎ分けていたと思う。
 例えば私が最初に惹かれた詩は、次のようなフレーズがあった。

 埋葬の日は、言葉もなく
 立ち会う者もなかった
 憤激も、悲哀も、不平の柔軟な椅子もなかった。
 空に向かって眼をあげ
 きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
 「さようなら、太陽も海も信ずるに足りない」
 Mよ、地下に眠るMよ、
 君の胸の傷口は今でもまだ傷むか。
              (死んだ男)

 それは一九四二年の秋であった
 「御機嫌よう!
 僕らはもう会うこともないだろう
 生きているにしても 倒れているにしても
 僕らの行手は暗いのだ」
 そして銃を担ったお互いの姿を嘲りながら
 ひとりずつ夜の街から消えていった
 胸に造花の老人たちが
 死地に赴く僕たちに
 惜しみない賞賛の言葉をおくった
 (略)
 死の滴りは生命の小さな灯をひとつずつ消していく
 Mよ 君は暗い約束に従い
 重たい軍靴と薬品の匂いを残し
 この世から姿を消してしまったのだ
 死ぬことからとりのこされた僕たちのうえに
 君のなやましい顔の痕跡をとどめて
 なぜ灰と炎が君を滅ぼす一切であったのか?
              (アメリカ)

 おれたちの夜明けには
 疾走する鋼鉄の船が
 青い海のなかに二人の運命をうかべているはずであった
 ところがおれたちは
 何処へも行きはしなかった
 安ホテルかの窓から
 おれは明けがたの街にむかって唾をはいた
              (繋船ホテルの朝の歌)

 彼方の岸をのぞみながら
 澄みきった空の橋上の人よ、
 汗と油の溝渠の上に、
 よごれた幻の都市が聳えている。
 重たい不安と倦怠と
 石でかためた屋根の街の
 はるか、地下を潜り抜ける運河の流れ、
 見よ、澱んだ「時」をかきわけ、
 櫂で虚空を打ちながら、
 下へ、下へと漕ぎゆく舳の方位を。
              (橋上の人)


 これらの詩が私には何の違和感もなくすっと胸に入ってきた。私などの先行世代の敗戦を含む戦争体験者の胸の奥のつぶやきとして。
 生き残ってしまった者が、次の時間をどう生きていったらよいのか、死者との対話なしには一歩踏み出せない体験、そして目の前にしてそこに生きざるを得ない戦後の混乱、眼前にある風景は、「橋上の人」の冒頭のように「汗と油の溝渠の上によごれた幻の都市のように聳えて」生きる者を押しつぶすようにしか見えない。
 そして「繋船ホテル」のように「夜明けになっても何処への行」くとこのできない喪失感と希望からの切断。このような戦後の状況に向き合っている詩人に私は大いに共感した。
 鮎川信夫、というよりも「荒地」という詩集については吉本隆明の著作に親しんでいる私はいつか読みたいと思っていた。1972年の春、学生運動の大きな節目の体験でさまざまに逡巡している私に、ある友人が「橋上の人」を示してくれた。理学部という学部ではあり得ないような友人関係であったと、そのような友人たちを持ったことを今でも誇りに思っている。1975年に「荒地詩集」の復刻版が発行されたとき、これを毎回購入して一生懸命に読んだことが思い出される。シベリア抑留を扱った石原吉郎の詩に私には大いに惹かれたのもこの時期である。

 しかし1950年代以降の詩は私はほとんど読んでいない。鮎川信夫の詩も読んでいない。だが、本日展示されているなかで、「宿恋行」にとても惹かれた。

   宿恋行
 白い月のえまい淋しく
 すすきの穂が遠くからおいでおいでと手招く
 吹きさらしの露の寝覚めの空耳か
 どこからか砧を打つ音がかすかに聞こえてくる
 わたしを呼んでいるにちがいないのだが、
 どうしてもその主の姿を尋ねあてることができない
 さまよい疲れて歩いた道の幾千里
 五十年の記憶は闇また闇。


 わずか8行の短い詩である。1972年、詩人が52歳である。しかしここにも色濃く死の匂いがする。1945年の敗戦の日は詩人は25歳。詩人としての出発時から理不尽な死を強烈に意識し、そして敗戦後27年、52歳でまたこんなにも死のイメージを引きずっていることに私は愕然とした。私も1972年21歳のころに「政治的と死」について付きつけられた。それが鮎川信夫に親近感を覚えた根拠であったかもしれない。しかしそれから30年たった52歳の時にこのような死のイメージ、向こうから私に向かってくる死のベクトルは意識しなかった。ひたすら自分の仕事と、引き受けた労働組合という共同性の処理に右往左往していた。このころには鮎川信夫の詩を読むことや思い出すことなどまったくなかっていた。
 しかし1986年、66歳で亡くなった詩人にとってはひょっとしたら50代前半で自身の死のイメージと対面していたのではないかと思った。
 この「宿恋行」については、菱田春草の「砧」という作品のコピーも持っていたとのこと。この「宿恋行」のイメージにぴったりであった。展示を見た時はその結びつきが以外でもあったが、この絵のイメージと結びつけると作品世界が広がった。芒の原を月が照らし、芒の原の中に砧を打つ女性がひとり。夜に砧のを打つのは家の中であるはずだが、原っぱにポツンと座って打っている。砧を打つ寂しい音が、夫の死によって家が崩壊した妻の「死への傾斜」を暗示している。この絵、残念ながらこれまでの「春草展」では展示されていた記憶がない。図録でも探せなかった。今度春草の展示がある時に是非探して見たいと思った。
 この鮎川信夫が引きずった死のイメージについて、私なりに惹かれるテーマである。

 北川透の記念講演は是非聞きに行きたかったのだが、どうしても他の予定が入っていて断念した。とても残念である。


本日も雨が降りそう

2016年06月08日 11時30分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では、朝の内は日がさして明るく暖かであった。今は曇り空。東の空だけは明るく青空が見えている。これから雨がパラつくという予想である。

 午前中は昨日から聴いているモーツアルトのピアノソナタ第11番と第12番をバックに若干のお仕事。6月2日に退職者会の先輩が亡くなったということで、私がこの間写した写真からいくつかを探して印刷したり、送信したりした。とりあえず終了。20日の幹事会で写真を飾り献杯をする予定。

 これから神奈川近代文学館に出かける。
 横浜の最高気温の予想が気象庁の発表では25℃。他の予報では24℃。長袖にするか半袖にするか、湿度を考慮しても微妙な差である。