「光のとりで」(1997年)の「音楽がぼくに囁いた」と「光と闇」という詩が目についた。本日は「音楽がぼくに囁いた」を綴ってみる。
音楽がぼくに囁いた
私は静かな涙だから
鼓動するざわめきのきみを載せて
非現実の遠い岸まで
ゆりかごのやうに運んでゆく
私は深い闇だから
きみといふ瞬く光を囲ひこみ
きみといふ発行体を守つてやらう
きみのまはりがせめて仄かに明るむやうに
そして私は 音楽にすぎないから
人間にすぎないきみと共に遊ぶ
だからと言つて 私と所有できると思ふな
私は音楽だから
音楽をさへ超えて拡がる
私はいつでもまたどこでも
きみの腕の外側に溢れてしまふ
それが私の 音楽である宿命だから-
かの「沈黙」さへ 私があるから存在するのだ。
1997年というと大岡信は66歳。このようなみずみずしい相聞の詩と思われる作品を含む詩集を刊行する若さにちょっと驚きと羨望を感じた。
第2連の「私は闇だから/きみといふ瞬く光を囲ひこみ/きみといふ発行体を守つてやらう/君のはわりがせめて仄かに明るむやうに」を読んだとき、声に出して読んで見たくもなった。しかし私はこれが自分の娘に向かってであっても、それは人に聞こえないように、どこかに隠れて声に出すと思われる。
相聞の歌は、共同体の中でおおらかに発する時代から、対関係・家族の中でひそかにかわす時代である。
私がわからないのは「沈黙」という括弧でくくった理由。この「沈黙」は何を意味しているのか、分からない。単に沈黙という言葉の意味ならいろいろ想像できるが、括弧付の「沈黙」がわからない。
音楽がぼくに囁いた
私は静かな涙だから
鼓動するざわめきのきみを載せて
非現実の遠い岸まで
ゆりかごのやうに運んでゆく
私は深い闇だから
きみといふ瞬く光を囲ひこみ
きみといふ発行体を守つてやらう
きみのまはりがせめて仄かに明るむやうに
そして私は 音楽にすぎないから
人間にすぎないきみと共に遊ぶ
だからと言つて 私と所有できると思ふな
私は音楽だから
音楽をさへ超えて拡がる
私はいつでもまたどこでも
きみの腕の外側に溢れてしまふ
それが私の 音楽である宿命だから-
かの「沈黙」さへ 私があるから存在するのだ。
1997年というと大岡信は66歳。このようなみずみずしい相聞の詩と思われる作品を含む詩集を刊行する若さにちょっと驚きと羨望を感じた。
第2連の「私は闇だから/きみといふ瞬く光を囲ひこみ/きみといふ発行体を守つてやらう/君のはわりがせめて仄かに明るむやうに」を読んだとき、声に出して読んで見たくもなった。しかし私はこれが自分の娘に向かってであっても、それは人に聞こえないように、どこかに隠れて声に出すと思われる。
相聞の歌は、共同体の中でおおらかに発する時代から、対関係・家族の中でひそかにかわす時代である。
私がわからないのは「沈黙」という括弧でくくった理由。この「沈黙」は何を意味しているのか、分からない。単に沈黙という言葉の意味ならいろいろ想像できるが、括弧付の「沈黙」がわからない。