Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

穏やかな日和の休養日

2017年04月23日 22時35分27秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 買い物から帰って、「江戸の花鳥画」「応仁の乱」を少しばかり読んだら昨晩のお酒の疲れが出てきて20分ほど寝てしまった。東京国立近代美術館ニュース「現代の眼」623号も読むことは読んだが、活字を目で追ってはいるものの、頭には入らなかった。「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」展が特集であったが、やはり日ごろなじみのない茶碗については難しい。実感が湧かない。
 夕刻からは再び退職者会のニュースの編集作業。一応一面は終了。二面の80%が完了。あとは明日の講演会の報告と別の記事を依頼したかたからの送信待ち。明日午前中に少し手入れをして、後援会の席で他の役員のチェックをしてもらう予定である。
 何とか明後日には印刷所に入稿できそうである。予定よりも2日早く出来上がりそうである。

 少し風は冷たかったが、日向は暖か。明日も穏やかな日和になるらしい。本日はこれにて作業は終了

焼ビーフン

2017年04月23日 16時29分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は休養日&休肝日。飲み過ぎた翌日が休肝日ということにしているが、これではあまり効果は無いかもしれない。すくなくとも一週間に2日の休肝日が必要とのご意見も聞かれるが、まぁあまり気にしないでいる。
 本日は「雪村展」の図録の解説といくつかの本を読み、参考までに岩波文庫の「列子」を本箱の奥から探し出して20年ぶりくらいに開いてみた。昔は好きだったが、荘子と比べて少々作為が鼻につくところがある。まだ読みが浅いのかもしれない。
 昼間久しぶりに焼ビーフンを作ってくれた。中華料理店で供される焼ビーフンはもやしが多い。これは悪くはないのだが、ビーフンよりももやしが多く、この場合は水っぽさが口に合わない。私の好みではない。もやしが合うのはタンメンや野菜ラーメンなどの熱い汁ものだと思っている。
 また炒め油が多すぎるのも好みではない。少なめの豚肉とネギとニラないしピーマンと混ぜて炒め、ふっくらと盛ったビーフンに黒胡椒をタップリとかけ、さらにコーレーグースーで唐辛子の辛味を加えたのが私の好みの焼ビーフンである。

 先ほどは買い物に付き合った。久しぶりに歩いて15分ほどの生協まで。妻の目的はその横にある和菓子店であったようだが、そうはいっても生協での買い物で結構重くなった袋を持たされた。

 帰り道、少し近道をしようとしてかえって100mほど余計に歩いた。「断定的にいうから信じたのに‥。信じたのが間違いだった」と云われたので、「それは40年前におれを選択したことからはじまっていることだ」と煙にまいて言い逃れをした。


「雪村」展(東京藝大美術館)から -3-

2017年04月23日 12時13分54秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 私はこのどこか人を食ったような作品「列子御風図」(アルカンシェール美術財団蔵)が好きである。
 解説では「列子」の中の「風がわが身に乗っているのか、わが身が風に乗っているのかも全く意識しない境地に達し得た」とある、と記されている。
 岩波文庫版の「列子」の「黄帝第二」に確かに「竟不知風乗我邪、我乗風乎」(ついに風我に乗るか、我風に乗るかを知らず)とある。ついでにその前の段落には黄帝がその理想の国のこととして「乗空如履實、寝虚若處牀」(空中に乗ずること實(大地)を履(ふ)むがごとく、虚(空)に寝ぬること床(牀)におるごとし」)とあった。
 掛け軸のように腰を落として、下部から見上げると空中の列子の上に向かうベクトルはさらに強調される。大地を象徴する岩と草木は最初に眼につくものとしては実に素っ気ない。それが空を飛ぶ列子を強調していると好意的にみるか、工夫がない、と否定的に見るかはわかれるところかもしれない。

 中国では仙人はひとつの理想像であったと思われる。私は列子の言葉は、無為自然の理想の民のことを下地にして、列子の境地を語っていると理解している。そうすると仙人が、社会と切り離されて「技術」として空中浮揚を体得したとすると、理想郷ではない仙人の自己実現のための「技能・技術」と思える。理想郷の民の自然な振舞いではなく、「作為」に基づく仙人像である。この作品もあくまでの「不自然」で、これ見よがしの振舞いに映る。「無為」の状態ではない。
 雪村自身もこのような「作為」にひょっとしたら疑問を持っていたのかもしれないと、私は理解したい。



 後期展示のため見ることは出来なかったが、解説ではこの作品は三幅対「琴高仙人・群仙図」との関連を指摘している。
 私の感覚では、「琴高仙人・群仙図」(京都国立博物館蔵)は描かれている人物たち(仙人)には動きがなく、視線もバラバラである。中央で鯉に乗っている仙人を見ている人物と思われる童子を含む人物は5人しかいない。「列子御楓図」の元となった左幅の手前の人物もどこを見ているか判然としないし、動きもない。中央の鯉に乗って表れた仙人などには興味を示していない。どこか「俺のほうがもっとすごいんだぞ」という対抗心すら見えるのではないか。
 人物が似ているので、描かれた時代は近いのかもしれないが、画家の思念・思想は大きく変化しているように思われる。あるいは、中国の「仙人」のもつイメージへの違和感を持っていたのか、という解釈で、両者を統一的に把握できるかもしれない。「琴高仙人・群仙図」のほうが重要文化財ということで、評価は高いようだ。