芭蕉の「奥の細道」には、今の宮城県大崎市鳴子から山形県の尾花沢に抜ける山刀伐(なたぎり)峠の難所を次のように記している。
蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(ばり)する枕もと
あるじの曰く、これより出羽の国に大山を隔てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越べきよしをもうす。さらばといいて人を頼みはべれば、究境の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立ちて行く。今日こそ必ずあやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行く。あるじのいふにたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行くがごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこのいふやう、この道かならず不用のことあり。恙なうをくりまいらせて仕合したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞きてさへ胸とどろくのみなり。
この芭蕉の旅、これまで太平洋岸、陸奥を北上していたが、この峠で折り返し出羽に入って南へ向かう。奥の細道の山寺・最上川・出羽三山など充実した後半がスタートする。
加藤楸邨の「まぼろしの鹿」をめくっていたら1955年11月初めにこの山刀伐峠を旅して、鳴子から尾花沢に至る「山刀伐峠越え」66句を作っている。そのうち山刀伐峠での句は30句。芭蕉は夏にこの峠を越えたが、加藤楸邨は時雨の降る季節に歩いた。
★雲に鳥わが生いまだ静かならず
★蜻蛉先立て山刀伐峠今超えゆく
★大き枯野に死は一点の赤とんぼ
★鳶の締むる輪山刀伐峠の裸木へ
★しずかな眠り蝗に満ちぬその辺をゆく
★芒原芭蕉の径の見えつ消えつ
6句のうち、3句目唐突に「死」が詠まれる。11月であるから雪はまだとしても寒さで荒涼とした山道が縫っている「枯野」に「休眠」や「死」を連想したものだろうか。対照的に生の象徴として鮮やかな「赤とんぼ」が配されている。ハッとする鮮やかさ、キリッとしまった風景が現出すると感じる。「鳶」が輪を描きながら裸木に降りる様に、冬枯れの中の逞しい生の息吹がある。「蝗」の句にもどうように惹かれる。
芭蕉の俳文が、難所を旅する不安と厳しさを背景にしている一方、加藤楸邨は冬の自然の中に厳しいが逞しい生の営みを見つけていると思う。「わが生いまだ静かならず」に戦中の死を潜り抜けた作者の戦後の再生への道筋を読むのは的外れだろうか。
蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(ばり)する枕もと
あるじの曰く、これより出羽の国に大山を隔てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越べきよしをもうす。さらばといいて人を頼みはべれば、究境の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立ちて行く。今日こそ必ずあやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行く。あるじのいふにたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行くがごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこのいふやう、この道かならず不用のことあり。恙なうをくりまいらせて仕合したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞きてさへ胸とどろくのみなり。
この芭蕉の旅、これまで太平洋岸、陸奥を北上していたが、この峠で折り返し出羽に入って南へ向かう。奥の細道の山寺・最上川・出羽三山など充実した後半がスタートする。
加藤楸邨の「まぼろしの鹿」をめくっていたら1955年11月初めにこの山刀伐峠を旅して、鳴子から尾花沢に至る「山刀伐峠越え」66句を作っている。そのうち山刀伐峠での句は30句。芭蕉は夏にこの峠を越えたが、加藤楸邨は時雨の降る季節に歩いた。
★雲に鳥わが生いまだ静かならず
★蜻蛉先立て山刀伐峠今超えゆく
★大き枯野に死は一点の赤とんぼ
★鳶の締むる輪山刀伐峠の裸木へ
★しずかな眠り蝗に満ちぬその辺をゆく
★芒原芭蕉の径の見えつ消えつ
6句のうち、3句目唐突に「死」が詠まれる。11月であるから雪はまだとしても寒さで荒涼とした山道が縫っている「枯野」に「休眠」や「死」を連想したものだろうか。対照的に生の象徴として鮮やかな「赤とんぼ」が配されている。ハッとする鮮やかさ、キリッとしまった風景が現出すると感じる。「鳶」が輪を描きながら裸木に降りる様に、冬枯れの中の逞しい生の息吹がある。「蝗」の句にもどうように惹かれる。
芭蕉の俳文が、難所を旅する不安と厳しさを背景にしている一方、加藤楸邨は冬の自然の中に厳しいが逞しい生の営みを見つけていると思う。「わが生いまだ静かならず」に戦中の死を潜り抜けた作者の戦後の再生への道筋を読むのは的外れだろうか。