Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「山刀伐峠越え」より(加藤楸邨)

2017年04月02日 23時13分48秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 芭蕉の「奥の細道」には、今の宮城県大崎市鳴子から山形県の尾花沢に抜ける山刀伐(なたぎり)峠の難所を次のように記している。

 蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(ばり)する枕もと

あるじの曰く、これより出羽の国に大山を隔てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越べきよしをもうす。さらばといいて人を頼みはべれば、究境の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立ちて行く。今日こそ必ずあやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行く。あるじのいふにたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行くがごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこのいふやう、この道かならず不用のことあり。恙なうをくりまいらせて仕合したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞きてさへ胸とどろくのみなり。


 この芭蕉の旅、これまで太平洋岸、陸奥を北上していたが、この峠で折り返し出羽に入って南へ向かう。奥の細道の山寺・最上川・出羽三山など充実した後半がスタートする。

 加藤楸邨の「まぼろしの鹿」をめくっていたら1955年11月初めにこの山刀伐峠を旅して、鳴子から尾花沢に至る「山刀伐峠越え」66句を作っている。そのうち山刀伐峠での句は30句。芭蕉は夏にこの峠を越えたが、加藤楸邨は時雨の降る季節に歩いた。

★雲に鳥わが生いまだ静かならず
★蜻蛉先立て山刀伐峠今超えゆく
★大き枯野に死は一点の赤とんぼ
★鳶の締むる輪山刀伐峠の裸木へ
★しずかな眠り蝗に満ちぬその辺をゆく
★芒原芭蕉の径の見えつ消えつ


 6句のうち、3句目唐突に「死」が詠まれる。11月であるから雪はまだとしても寒さで荒涼とした山道が縫っている「枯野」に「休眠」や「死」を連想したものだろうか。対照的に生の象徴として鮮やかな「赤とんぼ」が配されている。ハッとする鮮やかさ、キリッとしまった風景が現出すると感じる。「鳶」が輪を描きながら裸木に降りる様に、冬枯れの中の逞しい生の息吹がある。「蝗」の句にもどうように惹かれる。
 芭蕉の俳文が、難所を旅する不安と厳しさを背景にしている一方、加藤楸邨は冬の自然の中に厳しいが逞しい生の営みを見つけていると思う。「わが生いまだ静かならず」に戦中の死を潜り抜けた作者の戦後の再生への道筋を読むのは的外れだろうか。

「シューマニアーナⅦ」(伊藤恵)

2017年04月02日 19時45分54秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 本日聴いている曲は伊藤恵のピアノ独奏による「シューマニアーナⅦ」。「アレグロ作品8」と「ダヴィッド同盟舞曲集作品6」がおさめられている。
 解説によると、「アレグロ作品6」は大規模なソナタの第1楽章として想定されたという。結構壮大な曲の冒頭らしい曲であるが、これだけで完結していると感じさせる。
 「ダヴィッド同盟舞曲集」(1837)は、オイゼビウス(E)とフロレスタン(F)という二人の架空の人物の名で発表された曲。18曲からなり、第9曲と第18曲を除き、EとFのサインがそれぞれに記されている。FとEは、それぞれ「情熱と夢想」、「動と静」を対比的に表しているとのこと。E&Fの曲もあるが、概して私はEの曲の方が性に合っている。
 シューマン自身が二つの対比の中に自己を見いだしていたのであろう。むろん人はもともとどちらばかりの性格を示すものではない。対比される性格のバランスの下に多くの人は生涯を生き抜いていく。そのバランスが崩れるところにさまざまな葛藤や、生きる糧やエネルギーが生まれる。しかしバランスのとり方自体もさまざまに応用がある。
 どちらかという選択をしてしまっては自分自身の統御は出来ないが、危ういバランスに支点を喪失してしまう場合もある。そんなことを考えながら、この曲集の支点の置き所をそれぞれに想定しながら聴くのも悪くない。
 録音は1996年となっている。

                  

本日の花見

2017年04月02日 16時35分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の午後は曇り時々晴れの予報となっていた。実際は15時過ぎには雲が少なくなり、風も弱くなってきた。
 13時から始まった花見は当初風もあり寒かったが、風が止み、日の射す時間が続くようになり厚着をすれば快適であった。
 団地内の桜の木は、残念ながら一分咲き。しかしかなりの大木である。みなとみらい地区の高層ビル群をのぞみながらの花見はそれなりに風情があった。
 寒い上に、桜が見頃ではないこともあり、参加者は少なかったが、それなりに楽しめた。ビールと日本酒とウィスキーを交互に飲んで、酔いも回った。
 団地が出来て50年、太くなった桜の幹はいづれ自立は難しくなりそうな気配。今から若木を植えて、樹木の更新の準備をしなくてはいけないのではないか、と危惧をしている。
 桜の木を伐るというのは、思い入れの強い人が多くなかなか難しい。今から団地全体のコンセンサスを得る努力が必要な気がする。

「原爆図」より(加藤楸邨)

2017年04月02日 10時50分20秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 先日加藤楸邨が1970年に広島を訪れた時の句を第11句集「吹越」(1976)所収の「鬼瓦」から取り上げた。加藤楸邨65歳の作品である。
 敗戦後8年たった1953年の冬に広島を訪れている。このときの句は第10句集「まぼろしの鹿」の初めに「原爆図」26句として上梓された。

★原爆図真の冬日か野にあるは
★原爆図中口あくわれも口あく寒
★壁に対へば冬まぼろしの原爆図
★冬鵙や胸底におく原爆図
★原爆図唖々と口あく寒鴉
★原爆図さむし母乳をまさぐる指


 この一連の原爆図の句の前には次の句もおかれている。

★餅腹のたもつよ「戦後」ながかりき

 昨年、平塚市美術館にて「原爆図」を見たときの印象が蘇ってくる。
 最初の句「真の真冬か」という断定にドキッとした。原爆は8月6日の夏の日。描かれた太陽は、冬の日のように寒々しく被ばくした人々にあたる。そこにある太陽に象徴される自然は過酷なものでしかない。人間によって破壊されそうになった自然は、人間に過酷に対する。自然がその力を回復するのは、被害を受けた人々からすると長い時間がかかっている。自然は時間がかかるが回復ははじめている。しかし自然を破壊した国家や社会は、被害を受けた人々にはさらに過酷であったし、今も過酷である。