Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

句集「吹越」(加藤楸邨)から -2-

2017年04月20日 23時08分03秒 | 俳句・短歌・詩等関連
「吹越」から
(1972年作者67歳)
「透明な水」
★淡雪のきえてしまへば東京都
「過去の黄」
★菜を過ぎて過去の黄どつと溢れたり
(1973年作者68歳)
「冬の鏡」
★誰か柚子を持ちてゐるらしデモの中
「手毬唄」
★菜の花に疲れてをればみな昔
★おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ

 「手毬唄」の句は二句とも「思う」ことが、心のどこかでしこりや塊となって、いつもそこのところに至っては考えが先に行かない、そんなもどかしさの核になっているような状態を詠んでいるようだ。心の奥にあるこのしこりや塊は「疲れ」の核になることもあり、そして反復の挙句にらせん構造のように上昇することもなく、沈殿していく。60年も70年も付き合い続けている嫌な時間が春の憂鬱である。

「穀雨」と「春深し」

2017年04月20日 21時27分43秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 4月20日から5月4日までが「穀雨」。百穀をうるおす春雨の季節をさす。5月5日はもう立夏でもある。

★音絶えて独りが怖き穀雨の夜      長島八千代
★まつすぐに草立ちあがる穀雨かな    岬 雪夫
★春深し口より糸を吐く夢も       川原枇杷男
★まぶた重き仏を見たり深き春      細見綾子

 穀雨のイメージとしては明るい雨、柔らかい雨であり、生命力の旺盛さを準備する力が浮かぶが、人の思いはそれだけと正反対のものもある。二十四節気などの季語はそのことばのもつイメージ力が強すぎて、新たなイメージは作りにくい。歳時記などでも節気の季語にはどちらかというと言い古されてしまったイメージの句が並ぶ。「穀雨」も「深き春」もその例にもれず、といったところ。
 第一句の「音絶えて」は「独りが怖き」としたが、果たして成功しているだろうか。本日は私の気持ちにぴったりの句は歳時記からは見つけられなかった。


句集「吹越」(加藤楸邨)から

2017年04月20日 18時39分13秒 | 俳句・短歌・詩等関連
作業が終わって先ほど帰宅。休養しながら「加藤楸邨句集」(岩波文庫)をめくっている。

「吹越」から
(1971年作者66歳)
「悪の相」
★薔薇はなれ一二歩にして悪の相
★闇の中牡丹の散りし闇のある
「男体」
★かまきりの畳みきれざる翅吹かる
★鈴虫の食はれ残りが髭振れる
「北越雪譜」行
★晩稲刈りし低き重心にて町ゆく
★死にきれぬ念々を目にいぼむしり

 今の私と同じ年齢となった加藤楸邨の句である。「死」が色濃く反映している。一方で荒ぶるような生、人知れず抑えて人には見せてこなかった自己の生の一断面をどこかでひきずってもいる。
 生と死の狭間の葛藤を読み取ってしまう。