世の中には、遅刻する人間と早く来る人間と二種類いる、と言われた。仕事をするうえでは、むろん遅刻してはいけない、という意味であった。家庭でも、学校でもむろん、遅刻はいけないこと、としつけられた。しかし大学生時代ははたしてどうだったかというと、かなりルーズになっていた。だから就職してからは「遅刻してはいけない」ということにはずいぶん神経を使った。
特に労働組合の会議というのは、とてもルーズだったので私自身もその作風には違和感があった。主流派も反主流派も、非主流派も程度の差はあれ、似たようなものであった。「反定刻主義」といってかえって粋がってもいた。不思議なもので第3勢力を自任する非主流派は、遅刻はさほどひどくはなかったが、深夜になっても会議が終わらないという「終了時間の遅刻」がひどかったと思う。
しかし、現役時代の最後のほうになってから、「遅刻はいけない」ことは前提として、「早すぎる参集」というものの弊害の場面に遭遇することが多くなった。早すぎることへの弊害に気が付くようになった。
まずは8時45分の業務開始の前、10分から30分くらい前にだいたいが出勤するのだが、2時間以上前に出勤する仲間がいた。職場には宿直の職員がいるのだが、6時半頃に出勤してくる職員が異動になってきた。広い敷地の門を開けさせられる宿直職員にとっては迷惑な行為なのだが、早く来る職員はコーヒーを沸かし、優雅に新聞をじっくり読むのが朝の日課であるらしい。地元からさまざまな電話がかかって来ても、それには受話器を取らないで、宿直職員にまかせっきりである。3世代同居の家族全員が同じように職場に2時間前に出勤する習慣だという。
管理職が何も注意しないので、組合の役員である私に宿直担当の職員が悲鳴を上げて訴えてきたことがある。普段から優柔不断で困っている管理職に対応を求めても腰をあげない。早すぎる出勤の職員に私が「仲間が困っている」旨をつたえても一向にあらためない。最後には「生まれてきてこれまで、早起きや早く出勤することで文句を言われたことはない」と開き直られた。とうとう2~3カ月後に、宿直職員が6時前に出勤してきたその職員に「いい加減にしてくれ」と怒鳴って、門を開けずに実力行使をしたらしい。ようやく7時ころに出勤するようになった。
労働組合の集会でも、休日の参集の場合、1時間以上前からやって来る組合員が必ずいた。役員としては30分前に参集場所に行って、目印の小旗を掲げたり、参加表をもってチェックをするようにしていた。早く来る人は、だいたいが「役員はもっと早く来ないといけいない」と文句をいう。私は若い頃は「ゴメンナサイ」といっていたが、50代も過ぎるようになって、「そんなに早く来てどうするの?」と反問を繰り返すようにした。
遅刻する人間はいる。それらの人は特に決まった人ではなく、交通機関が遅れたなどの理由がはっきりしている。携帯電話にもその旨を伝えてくる。
早すぎる参集の人はいつも決まっている。そして決められた参集時間の15分も前になると「早く出発しよう」と主張もする。決められた参集時間直前に来る人もいる。理由があって少し遅れるひともいる。これはお互い様である。
しかもこの「早すぎる」人の言うとおりにしていると、参集時間がどんどん前倒しになってしまう、ということにどうしても気が付いてくれない。私の体験的な判断では、ギリギリに来る人や、やむなく遅刻してしまう人を許せない、という世界に入り込んでしまう人が多いようだ。
「遅刻はいけない」はたいせつだが、「早すぎることもまた問題行動である」ということに自覚的であることももたたいせつである。
特に労働組合の会議というのは、とてもルーズだったので私自身もその作風には違和感があった。主流派も反主流派も、非主流派も程度の差はあれ、似たようなものであった。「反定刻主義」といってかえって粋がってもいた。不思議なもので第3勢力を自任する非主流派は、遅刻はさほどひどくはなかったが、深夜になっても会議が終わらないという「終了時間の遅刻」がひどかったと思う。
しかし、現役時代の最後のほうになってから、「遅刻はいけない」ことは前提として、「早すぎる参集」というものの弊害の場面に遭遇することが多くなった。早すぎることへの弊害に気が付くようになった。
まずは8時45分の業務開始の前、10分から30分くらい前にだいたいが出勤するのだが、2時間以上前に出勤する仲間がいた。職場には宿直の職員がいるのだが、6時半頃に出勤してくる職員が異動になってきた。広い敷地の門を開けさせられる宿直職員にとっては迷惑な行為なのだが、早く来る職員はコーヒーを沸かし、優雅に新聞をじっくり読むのが朝の日課であるらしい。地元からさまざまな電話がかかって来ても、それには受話器を取らないで、宿直職員にまかせっきりである。3世代同居の家族全員が同じように職場に2時間前に出勤する習慣だという。
管理職が何も注意しないので、組合の役員である私に宿直担当の職員が悲鳴を上げて訴えてきたことがある。普段から優柔不断で困っている管理職に対応を求めても腰をあげない。早すぎる出勤の職員に私が「仲間が困っている」旨をつたえても一向にあらためない。最後には「生まれてきてこれまで、早起きや早く出勤することで文句を言われたことはない」と開き直られた。とうとう2~3カ月後に、宿直職員が6時前に出勤してきたその職員に「いい加減にしてくれ」と怒鳴って、門を開けずに実力行使をしたらしい。ようやく7時ころに出勤するようになった。
労働組合の集会でも、休日の参集の場合、1時間以上前からやって来る組合員が必ずいた。役員としては30分前に参集場所に行って、目印の小旗を掲げたり、参加表をもってチェックをするようにしていた。早く来る人は、だいたいが「役員はもっと早く来ないといけいない」と文句をいう。私は若い頃は「ゴメンナサイ」といっていたが、50代も過ぎるようになって、「そんなに早く来てどうするの?」と反問を繰り返すようにした。
遅刻する人間はいる。それらの人は特に決まった人ではなく、交通機関が遅れたなどの理由がはっきりしている。携帯電話にもその旨を伝えてくる。
早すぎる参集の人はいつも決まっている。そして決められた参集時間の15分も前になると「早く出発しよう」と主張もする。決められた参集時間直前に来る人もいる。理由があって少し遅れるひともいる。これはお互い様である。
しかもこの「早すぎる」人の言うとおりにしていると、参集時間がどんどん前倒しになってしまう、ということにどうしても気が付いてくれない。私の体験的な判断では、ギリギリに来る人や、やむなく遅刻してしまう人を許せない、という世界に入り込んでしまう人が多いようだ。
「遅刻はいけない」はたいせつだが、「早すぎることもまた問題行動である」ということに自覚的であることももたたいせつである。