2月14日、元横浜市専任主幹の鳴海正泰氏が亡くなった。飛鳥田市政の生き証人がまた世を去った。
鳴海正泰氏は、横浜市長であった飛鳥田一雄氏の招きで1963年に横浜市に招かれた。1978年まで在籍し、企画調整局専任主幹として飛鳥田市長の政策遂行に大きく貢献された。
私が大学の5年目にあたり、横浜市役所を受けるときに、19年前に東北大学を卒業したかたがブレーンらしいということを初めて知ったが、名前までは知らなかった。飛鳥田市長の名前はよく聞いていたが‥。
1974年末に横浜市に採用が決まった時に「政策ブレーン、ふところ刀としての鳴海正泰」という名を恥ずかしながらようやく知った。1975年に就職して以降、「国の省庁でも鳴海正泰と田村明は有名らしいぞ」と教わった。
1978年に飛鳥田一雄市長が退任直後に市を退職。私が就職して3年後に退職したわけで、当然にも平職員の私にはまったく面識もないままであった。雲の上の人であった。しかしその後も多くの管理職が「鳴海さんは怖い面もあっが、ざっくばらんに意見交換ができた」という評価をしていたのを聞いた。1980年に関東学院大学教授に就任。
1990年、自治労横浜が再建されたとき以降、労働組合の自治研活動などで姿を見る機会が多くなった。横浜地方自治研センターの理事長に就任された以降、幾度か講演会などで言葉を交わす機会に恵まれた。集会や講演会の後の居酒屋で、「同じ東北大学」ということで仙台の川内の旧兵舎を利用した傾いた校舎の話や、大学の紛争の話、寮の話などをした記憶がある。
最近は、村雨橋で飛鳥田市長を先頭にベトナムに行く米軍戦車を道路構造令を盾に座り込んで戦車を止めた闘争が映画などで再び脚光を浴びた。多くの市民が直接道路に座り込んだ闘争である。来年はその闘争に50周年である。
最近では、林市長の「カジノ誘致」に反対する講演会などにも足を運び、年末には会場であいさつなどもさせてもらった記憶がある。飛鳥田一雄市長の「住民による直接民主制」の実現に奔走された鳴海正泰氏から見て、住民投票条例を求めた署名活動や、それに対する林市長の「住民投票条例拒否」の市長意見は、どのように映ったであろうか。意見・評価をぜひ聞きたかった。
1931年9月生まれなので、亡くなったときは89歳。
私が編集している労働組合の退職者会の機関紙にも急遽訃報を掲載することになり、先ほどまでレイアウトの変更作業であわただしかった。
昨日のカワヅザクラ、寒さにもかからず、ずいぶんと赤味を増していた。散るまでに色が濃くなるのが、カワヅザクラの特徴のなのだろうか。花の寿命も長いようだ。
メジロが何羽もいたけれどもスマホのカメラでは追いきれなかった。花の塊の中に入り込んでしまい、カメラには収まってくれなかった。
散っている花弁は、自然に落ちた花弁ではなく、メジロなどに啄まれたもののようにも思えた。
午前中の作業はとりあえず終了。夜にもう少しやってみたい。
さて、この間、退職者会のニュースの9月号、11月号、正月号、3月号、並びにこの5年で亡くなった役員を偲ぶイベントのリーフレット、そして40頁に及ぶ記念誌の編集をこなしてきた。ずいぶんと根を詰めて、時間的にもゆとりが少なかった。コロナ禍で行動が少なかったことがさいわいしたともいえる。
多分3月いっぱいで記念誌の作業も終了するはずである。4月に編集する5月号は記事がないのが気になる。しかし5月に予定している30周年記念式典と退職者会の年次総会の報告のニュースを6月中に編集して、一連の作業はひと段落となるはずである。一年間途切れずに続いた作業は、さすがにくたびれた。作業がひと段落すると同時に、コロナ禍の行動自粛も解除になってほしいものである。
どこかで一息つきたい。心身ともにそろそろ悲鳴を上げそうである。妻にもストレスがかかっていると思われる。年を取れば、息抜きの感覚が狭いと実感するこの頃である。