Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「銀河の光 修羅の闇」より

2021年02月09日 22時51分02秒 | 読書

   

 上永谷駅のそばの喫茶店に入ったら、客は私一人、一杯190円で淹れたてのコーヒーを飲むことができた。
 喫茶店では「銀河の光 修羅の闇――西川徹郎の俳句宇宙」(小林幸吉)の第2章を読み終えた。もう少し読むつもりでいたが、ウォーキングの2時間近くを確保するためやむなく断念。

死者となった縁者へ、父へ、さらには宇宙の彼方へと消え去った〈不在者〉たちに向けて、次のような文章を記している。この部分は、〈夢〉を通路として未出現宇宙へと迫ろうとした埴谷雄高と何と近いことだろう。『父よ。あるいは、私は、書く行為の持続の中で、どこかで、すでに不在者でしかないあなたに、なされるはずのない再びの出会いを成し遂げようととひっしになったきたのであったのかもしれない。もし、仮にそうであったとすれば、「銀河つうしん」は、〈不在〉の読者へこそ向けて発信し続けられてゆく霊性の便りなのだと言ってもよいはずである。それは、銀河系の彼方から不断に私たちの〈生〉に向けて送り届けられている宇宙の淡い光にも似て、言語表現の〈現場〉を青白く照らしだすはずである。』その直後に、宮沢賢治の詩集『春と修羅』の徐の「私といふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとてつの青い照明です」という冒頭部分の三行が引用されているように、西川徹郎の世界は、そのまま宮沢賢治的な宇宙へもつながっていく。」(序章「未出現宇宙の消息」)

西川は、(俳句の指導を受けた細谷源二が戦前の新興俳句弾圧事件で)言論弾圧を受けることになった作品として、次の一句をあげている。〈鉄工葬終わりまっ赤な鉄打てり〉。『東京の鉄工場に旋盤工として勤務し、自身の生活と密着した俳句をかいていた細谷源二は、いわば都市や社会のもっとも低い位相から力強く人間の声、生活者の声を俳句をもって書き綴っていたのである。‥』。もう一人、このころ影響を受けた俳人は、同じ「氷原帯」にいた星野一郎であり、〈枯れ木の列の先頭は聖書を持っている〉〈凍った海に耳がたくさん落ちている〉。西川徹郎の実存俳句の遥かなる原点は、ここにある。」(第1章「〈西川徹郎〉存在の原風景)

吉本隆明は、「西川徹郎全句集」の解説で、『西川徹郎にとって青春期の表現はどこにどんな形式でありえたのだろうか』という一行からはじめ、その設問、問いこそがどんな形式でありえたのだろうかと指摘する。吉本は、西川の゜ポエジィ」のなかには「生存の不快感」が響いていて、彼は伝統俳人のように青春から老熟へとすすまずに、「老熟から嬰児へと逆行する歩み」、あるいは嬰児のもつ「永遠」へと迫るのが、西川徹郎の俳句の世界の世界ではないかと解説している。」(第2章「孤独と焦燥の〈海〉で――未完集「東雲抄」1963-1972」)

 第2章で取り上げている西川徹郎の若いころの句からいくつか。

★轢死者のくちびる流氷がくる匂い (1969年 22歳)
★鐘乱打する母月光の曼殊沙華 (同)
★浜が孕んで砂山になる暗い時間 (1972年 25歳)
★無灯艦隊草一本が戦慄する (1973年 26歳)
★死者の皺に住みつく遠い海鳴りは (同)


横浜市港南区の歴史

2021年02月09日 21時06分22秒 | 読書

 友人に紹介された本「親子で読む ふるさと港南の歴史」を購入するために、市営地下鉄の上永谷駅まで出向いた。
 購入後、上永谷駅から日限地蔵、下永谷駅、環状二号線中永谷交差点を経由して再び上永谷駅まで約1万2千歩ほどを歩いた。
 何しろ33年間も道路・下水道行政で港南区内の職場に在籍していたので、いまだにそれこそ目隠しをされてどこかで突然解放されても、すぐにどこにいるかわかる。たとえ住宅地の中であってもどの方向にどのくらい歩けば幹線道路やバス停にたどり着けるかもわかる。
 中世以来の旧道、江戸時代からの道の変遷や古い石碑、名刹などを思い出しながら、行きつ戻りつしつつ楽しく2時間近く歩いた。同時にかつて大雨で冠水したところ、川があふれたところ、雪がふるたびに雪かきに行ったところ、工事の監督に行ったところ、仕事で苦労したところなども当然にも思い出した。当然ながら、苦情を受けてうまく処理できたことと同時に、どうしても解決できずに投げ出したくなってことも思い出した。

 港南区の歴史については、これもまた参考にしたいと思っている。

 


「コンスタブル展」の予習

2021年02月09日 14時03分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日のオンライン講座は「学んでから行く《コンスタブル展》 『ターナーとコンスタブル 二人の19世紀風景画』」。今月の20日から5月30日まで三菱一号館美術館で開催されることになっている。ともにイギリスの産業革命期の画家。
 私は同時代のターナー(1775-1851)にも、コンスタブル(1776-1837)にも惹かれる。風景を、言霊や信仰・迷信などと切り離し、視覚という感覚によって芸術として自立させた画家のように思う。
 フランスのバルビゾン派と同様に、近代という目をもって「美術」を確立しようとした画家なのではないか、というのが私の頭の中の整理である。風景だけでなく点景として描かれる人物も、風景の中でやはり、神話や信仰や地霊、迷信などとは切り離されて生き生きと描かれる。
 点景として描かれる人物を、ターナーは不鮮明に靄や霧の中に描いているが、「近代」を肯定的にそのまま受け入れるように描いている。コンスタブルも点景ながら鮮明な像として描き、「近代」に背を向けて黙々とたくましく、そして生き生きと描いている。
 これに対してフランスのバルビゾン派では、ミレーなどのように描いたのは貧しい農民の姿で、土地に縛られつつ「救い」を求めているように描かれている。バルビゾン派に描かれた農民は受け身である。
 風景画としての評価では、100年前のオランダのロイスダールが空の雲を丹念に描いたものを、コンスタブルは一歩先に進めたように思える。
 しかしイギリスの風景画家はこの激動の時代、産業革命と政治の動乱期、市民革命の時代にどう時代とかかわったのか、関わらざるを得なかったのか、私にはまだよくわからない。展覧会の解説資料を手に入れて見たいと切に願っている。
 ヨーロッパの西の当時は「後進国」のスペインでのゴヤのように、近代という時代と向き合った画家の表現がいまだに私の脳裏に重くのしかかっている。わずかにターナーがナポレオン戦争時のイギリス艦隊の艦船を描いたことが伝わるのみである。

 本日の講座では、コンスタブルに影響を与えた前時代の画家達、そしてターナーとコンスタブルの生きた時代の社会の状況、さらに二人の生涯を詳しく解説してもらった。
 あとは実際の展覧会を見ながら、画家が時代とどのようにかかわったか、苦闘したか、を自分の目を確認してみたい。