Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「眼の神殿」(北澤憲昭) 3

2021年02月01日 22時13分57秒 | 読書

 本日歩いた歩数は1万歩と少しであるが、汗をかくほどに歩いたのは何か月ぶりであろうか。これまで痛くなっていた足の甲も今のところ痛みが出ていない。少しずつ歩く歩数や運動量を増やしていきたい。
 先ほどまで本を読んでいたら、睡魔に襲われた。昼間のウォーキングが効いているようだ。しかしわずか1万歩あまりで情けない。筋肉が衰え、体力が落ちるのは早いものである。30分ほど寝た。

   

 読んでいたのは、「眼の神殿 「美術」受容史ノート」(北澤憲昭)の第2章「「美術」の起源」の第1節「文明開化の装置――博物館の起源」、第2節「美術への胎動――博覧会の創始」まで。

「明治の日本が学ばねばならなかった西洋の近代文明を成り立たせてきたのは、この主観-客観という構えにほかならなかった。世界を見られるもの(=客観)として対象化し、観察し、計測し、法則化することを通じて、ついには支配するに至る道、これが西洋近代化の歩んできた道であり、明治の日本がこれから歩みださねばならぬ道でもあったのだ。」(第2節)
「(明治5年の)文部省博物局の分類構想は、体系性というにはあまりにも杜撰であるが、‥体験的な「網羅性」から見比べることによる「体系性」へというように約言することができる。見ることへの傾斜が「美術」の制度化とかかわる事柄であるのはいうに及ばず、見ることへの傾斜は、分類するという行為を介して、いっそう深々と近代化とかかわっていたのである。」 (第2節)  


強風・波浪・雷注意報

2021年02月01日 19時55分57秒 | 天気と自然災害

 午前中は太陽が顔を出さず、気温がなかなか上がらなかった。7℃前後だったようで、厚手のセーターを着て出かけた。しかし15時半過ぎに組合の会館を出た時は太陽も顔を出した。弱い風ながら南風であった。桜木町駅まで歩くと、コートを脱ぎたくなるほど。マスクのなかも汗ばんでしまった。
 しかし久しぶりにウォーキングといえるような早足で歩いて、気持ちはよかった。

 17時半ころから風が強まり、大きな音を立てて枯れ葉を舞い上げている。団地の中ではベランダにおいてあるものが風にあおられて転がる音がしている。南側の窓ガラスもときどき風にあおられてガラスが軋む音がする。18時半には最大瞬間風速13.4メートルとなっている。
 気象庁のホームページには、南西の風と表示されている。風が強いので、12℃という気温よりはかなり低く感じる。

 現在横浜市域には強風・波浪・雷注意報が出ている。

 


「図書2月号」 その2

2021年02月01日 11時03分59秒 | 読書



・周縁と下層              四方田犬彦
「幼少期から黒石が抱いていた強い非差別意識、孤絶意識に下層指向が加わって極限的な形をとったとき、この表題が意図的に採用された。だ、この点については、さらに細かく探求する必要がある。わたしはいずれ被差別民の登場する長編小説「預言」を論じる際に、この問題にもう一度立ち帰ってみることにしたい。」

・シヌタプカはどこにあったのか?    中川 裕

・詩人・仲村渠の路地をたどる      斎藤真理子
「(鄭芝溶と仲村渠)を北原白秋は「朝鮮あるいは琉球出身の若い詩人たちは日本語間に対して格別尖鋭であるやうに思はれる」と書いた‥。「格別の尖鋭」とは、それが異邦人の日本語だったことと無関係ではないのだろう。沖縄と朝鮮を単純に比較することはできないが、生まれた土地の日常語と文芸日本語との間にはっきりした距離のある二人だからこそ、風通しの良い、端正な、一語一語が粒立つような詩が生まれたのではないだろうか。」

・螺鈿――本質としての表層       橋本麻里
「物質とイメージとが幾重にも重なった層を透かし見える、幻のようなヴィジョンをまとった器体の内は虚(うろ)。表層こそが本質でありねすべてなのだ。」

・祈り、寄り添うということ       長谷川櫂
「『新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よごと) 大伴家持』日本最初の詩歌選集「万葉集」は大伴家持の信念の祈りの歌で全二十巻の幕を閉じる。家持には編者としての明確な意図があった。‥一首の背後に怪しい雲行きといえばいいか、漠然たる不安を感じさせる。雪雲に閉ざされた暗澹たる空から雪は舞い降りてくる。‥人間は何かの不安があるからね嫌な予感がするから祈る。祈りは必ず不安をまとっている。(759年聖武天皇が没して三年)地方豪族の反乱が相次ぎ、時代は徐々に下り坂に向かう。大伴家も没落の道をたどり始める。家長の家持は一族の衰退をどんな思いで眺めていたか。」
 確かに、日本海側に面した因幡の国ではこの時期、雪や雨が多く雲が空を覆い、関東地方とは違う世界であった。
「「万葉集」四五〇〇首あまりの長歌や短歌、額田王や柿本人麻呂や家持その人の歌の数々が、さながら空に舞う数かぎりない雪片のようにこの一首の祈りの歌の背後でうごめく気配が判じられるはずだ。‥は家持の新年の歌は「万葉集」全巻の繁華なのではないか。四五〇〇首あまりの長歌短歌すべてを祈りの歌に変える言葉の錬金術の働きをしている。‥家持はその後二十六年間、七十歳近くまでいきたのに、この歌を最後に歌を詠まなくなった。少なくとも一首も伝わっていない。」

 16編のうち、12編をよんだ。