Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

広重「冨士三十六景」から「武蔵小金井」

2021年02月21日 22時38分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日取り上げたのは「武蔵小金井」。広重は「名所江戸百景」などでは極端ともいえる近景のクローズアップにより、人気を博していた。現在の私もその大胆な構図が斬新に思えている。西洋の近代美術にもそれらは大きく影響を与えた。
 しかしこの「冨士三十六景」では、それは影を潜めている。解説によればこの「武蔵小金井」だけがその大胆な構図に匹敵するとのこと。確かにこれまで取り上げた「東都佃沖」の大型の船も、「さがみ川」の渡し船や葦も、「越かや」の赤い花をつけた樹木も、近景を大きくとらえているが、これまでの「極端」には程遠い。
 「武蔵小金井」では、桜の樹木が極端に大きいだけでなく、向こうが見える洞(うろ)を二つも描き、そこに富士山を描いている。近景の拡大でけでなく、これ見よがしに人のどぎもを抜く描き方である。こんな洞を持つ桜が花をつけるとは思えない。
 さらにこの作品では縦の樹木の並びはあるが、水平線の構図はない。あざといまでの近景の拡大を水平の構図は弱めてしまう。弱めることで成り立つ構図もあるが、ここではそれは採用していない。平凡になってしまうということなのだろう。
 また視点の移動もない。前回記載し忘れたけれども、「東都佃沖」では近景を見る視点はかなり下、地面に近い。しかし近景の大きな船といえども、下からの視点だけでなく、船の甲板が見えるためには視点は少し上に移動している。中景の船を見るにはさらに視点を上に移動し、遠景の街並みはさらに上に移動している。少なくとも近景の船の帆の上くらいまで視点は移動している。
 この「武蔵小金井」では視点の移動はないように思える。それは富士山を窓枠効果で強調した故であろうか。それとも川と向こう岸を右側に鋭角に描いて奥行き感を出したために、視点の移動がなくとも遠近感を出せたためであろうか。
 左から右への視線の誘導と、富士山をのぞき込む画面の向こう側への視線の誘導が桜の洞で交差している。
 私が気に入っているのは、白い鳥3羽と桜の花びらが背景の空の薄い青に浮き上がるように描かれているのが気に入っている。下のほうの桜は夕焼けの茜色を背景にほんのり赤く描き、対象的に描いている。マグリットの作品のように、異なった時間が1枚の中に収められているように思えるのだが、思い過ごしだろうか。

 北斎の「冨嶽三十六景」を強く意識して描かれた広重のこの「冨士三十六景」、構図の取り方も北斎以上に工夫が見て取れる。


5月上旬並みの気温

2021年02月21日 20時14分22秒 | 天気と自然災害

 久しぶりに横浜駅の地下街と百貨店の地下の食料品売り場を訪れた。日曜日ということもあり、ずいぶん混雑していた。
 友人に頼まれた横浜の銘菓ということで、洋菓子と月餅をまとめて友人宅に配送してもらった。どちらも有名な店であるので、特に問題はないと思うのだが。横浜に住んでいると特に菓子を購入するということもないので、情けないことにリクエストされると戸惑う。

 本日は横浜では14時ごろに21.9℃もあったという。5月上旬ころの気温とのことである。午後に出かけた時、生地の薄い長袖の開襟シャツに、木綿地の上着を着て出た。しかし10分も歩いていると汗ばんできた。
 横浜駅近くまで遠回りして、およそ50分、6000歩。途中で野球帽をリュックに、次いで腕まくりをした。上着を脱ぎたくなる直前に横浜駅近くに到着、しばらくは家電量販店の入り口近くの歩道の横断防止柵に寄り掛かって涼んだ。ハンカチで汗を拭っていると、歩いていた30代くらいの若いサラリーマンも3人ほど思い思いに横断防止柵で一休みを始めた。なんとなく親近感が沸いた。

 帰りは少し気温が下がったのであろうか、それほどの汗はかかなかった。しかし途中の公園のベンチでお茶を飲み、水分を補給した。公園では半袖姿の子どもが走り回っていて、活発な姿がうらやましくもあり、そして少し癒されもした。

 


「時間の累積」ということ

2021年02月21日 13時25分56秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 私は美術を見、詩歌を読むときは、これまでも無意識にではあるが、その作品から漂ってくる「時間」を感じ取っていたのではないか、と思った。
 「時間」というものは「累積」して「価値」が生ずる。その「時間の累積」が感じ取られる作品に私は共鳴しているとも言える。
 作者が「時間の累積」に自覚的かどうか、というのは作品とは別のことである。作者の意識があくまでも作者にとっての「現在」にこだわったものでも、ある過去から作品の作られた時点までの時間が類推されれば、わたしにとっては優れた作品に見えると思う。
 また作者が描く対象、言語で表現する対象から何らかの「時間の累積」を感じ取ってそれを表現しようとしていることがわかると、私の記憶にさらに残りやすいのではないか。
 同時に鑑賞した時点で、「時間の累積」を感じないものでも、ひょっとしたら時間の経過とともに作品自体が輝きを増してくるものがあるような気もする。多分そこに作用をするものは、作品が人間社会との関係の中で翻弄されてきたことと関係があると思う。社会に何らかの強い作用を与えたが故に、社会にもまれるようにして評価を受けてきた「時間」が作品に固着していく。そんな思いが頭の中で湧いている。

 工芸品が美術品の違いというのも、これも「時間の累積」による作用の結果などではないか。工芸品と美術品の違いは何か、職人と芸術家の違いは何か、ということをどう定義するかと問われることがある。そのようなときの一つの答えとして「時間の累積」という切り口も有効だと思う。

 日本で仏像というものがある。古代から近世にかけて、そして現代も盛んに仏像は作られている。仏像を美術品として制作するといよりも、信仰の縁(よすが)として作成されると思う。しかし時間とともに、あるいはその作品が時代の変遷の中で、人々の信仰や救いへの思いを託されることで、「作品」から「美術品」として変容していくのではないか。
 私は仏像や過去の建築物などは当時の装飾に基づいて復元すべきだと思っているが、古びて装飾が消えた現在の姿を残したいという思いというのは、ひょっとしたらできた当時の姿よりも、古びて黒ずんで表情もわかりにくいさまに「時間の累積」を読み取ろうとする意識があるのかもしれない。

 私が生きてきた70年近い時間、さらに生まれた数年前の時間というのは、ほぼ私が経験した時間である。家族や近しい諸先輩との付き合いの中で、この自覚的に体験した時間というのが感じられる作品とは共鳴しやすい。
 ただし同時代の社会の経験でも、自覚的にそれを自分の中に取り組み、格闘していないものには共鳴しない、ということは自明である。
 「時間の累積」とは、社会との格闘と言い換えることもできる。社会や周囲との摩擦なしに受け身だけでは格闘にならないとし、体験という時間も堆積しない。

 社会との格闘といえばきつい言葉だが、何かを受け入れるときの違和感・摩擦といえばいいかもしれない。就職して職場に根付こうとして以降、できるだけおおくの違和感を飲み込むことが自分にとっては成長であると思ってきた。
 受け入れるときの違和感や摩擦を自覚的に自分の中に、肯定するにしろ否定するにしろ組み込むこと、これもまた自分にとっての「時間の累積」である。
 これと共鳴する芸術作品との出会いが、うれしいと思う。