昨日「奇病庭園」(川野芽生)を読み終えた。自分よりも何十歳も若い人の小説を読むということは40代以降まったくなかった。なかなかおもしろく読ませてもらった。小説だから「気になった個所の引用」というよりは、「気に入った表現」ということでいくつか引用してみる。
「言葉とはもっと深く惜しまれて出て来るもの、苔を伝って滴り落ちてくる雪解け水のように、きわめて貴重なものとして一滴一滴搾り出すように出てくるもの。そうして、与えられた痛みの意味も理解しなかった。」(翼について)
言葉に対する作者の繊細ながら独自の感覚が滲み出ている。
「特別に誂えられた轡と手綱、鞍と鐙で締めあげられ、笞で駆り立てられて、彼は〈本の虫〉を背負って走った。彼の岩乗な体躯は、荒くれ者の〈本の虫〉の乗馬に向いていた。道具として隷従する不自由と、全力を解き放って走る自由、あるいは自由の不安と、服従の愉悦が、彼のうちで手を取り合った。」(蹄について)
政治的に言ってしまえば、支配されることへの安住、奴隷の言いわけ、となるが国家や集団の中に自己を投じて「自由」であるということの幻想に踏み込んで叙述しようとする意欲は空回りはしていない、と感じた。
「思念と詞とを乳として彼は育った。・・おのれのものと他者のものとの区別のないやや焼きが渡ってった。・・・・防波堤に押し寄せては追い返されていく波のように、少年の内なることばは決して岸を侵さなかった。ことばが胸に開いたその瞬間に相手に伝わらないことが、彼には理解できなかった。かれには目の前によぎっていく月白の蝶のように、野を埋め尽くす紅い雛罌粟のようにはっきりと見えているのに、他の誰にもそれは見えないらしかった。」(金のペン先)
「言葉」が「詞」「ことば」になった理由はわからないが、内なることばへの馴致と、発せられる言葉に対する違和感、これは是非とも今後もこだわって欲しい。
「誰か一人だけ選んで命を取っていいといわれたら、迷わずあの人を殺すわ。そうしたらようやく、深く眠れるような気がするの。・・・・だれのことも憎んだことがない者は、だれのことも愛していないのですって。あたしはすべてを愛していたけれど、憎んだことはなかった。」(翼についてⅡ)
ちょっと若い人向けのアニメの世界なのか、と思わせながら、時代に即した「教団」という集団の内と外の論理に踏み込もうとしていることを感じる。成功しているか否か、もう少し次回作以降での展開に期待したい。
「触角は目や耳よりもはるかに多量の、そして微細な情報をその持ち主に伝達した。触覚で花に触れれば、花の柔らかさや色彩、味や香りが、くらくらするほど強烈に感じられる。石に触れれば、石の冷たい沈黙が痛いほどわかる。他人に触れれば、相手のもの思いやささやかな不調から、来歴や死期まであらかたわかってしまう。触角を何にも触れさせるまいとしても、風が運んでくる目に見えぬ微細な物質を、触角は捉えてしまう。こうしてかれらは、春の倦怠を、夏の空無を、秋の寂寞を、冬の憔悴を知った。萌え出づる前の若葉が木の芽の中に身を潜めながら呼び声を待つときの震えを知らされた。降り出す前の、まだ天の奥深くにある雪の気配に、樹々がそっと溶け出すのを覚えた。遠い雨の気配に紛れて、だれかが地面に落とす涙を感じた。深い沼のほとりで、だれかが沓を脱ぎ捨てて自分ひとりのためだけに歌う歌を聞いた。夜の澱を搔き乱す迷い蛾の羽ばたきを、明朝屠られる仔豚の深い眠りを、すべてに倦み疲れた少女が夜ごとはためかせる非在の翼を、目の見えぬ少年の唇に走るおののきを-世界へ差し伸べられた感覚器官に刃を挿し込むように、知らされた。」(触覚について)
長い引用になったが、いくら精緻に自然描写を繰り返しても、もどかしく捉えられない「感覚」。何とか獲得したい表現との格闘が見えていたので、長々と引用してみた。
私はこのような表現の繰り返し、畳みかけるような例示による表現は、万葉の時代からの日本語の特徴ではないかと思っている。作者が短歌から小説世界に入って来た特性を垣間見た気がしている。
作者は、32歳という。17日に発表される芥川賞候補で今年初めて「Blue」という作品がノミネートされた。他の候補も若いが、すでに複数回ノミネートされたことがあるらしい。
17日の結果に注目したい。