Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

刺さって「痛い」棘

2024年01月14日 23時16分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の午前中は団地の管理組合の諮問機関の会議。会議後、1時間ほどの作業。昼食休憩と退職者会の若干の事務作業ののち、横浜駅近くのいつもの喫茶店で読書と、有隣堂での立ち読み&棚の物色。物色といっても購入はせず、眺めるだけに等しい。立ち読みは数冊だけ。
 そのまま頼まれた買い物を1点購入し、帰宅。

 15時過ぎに最高気温11.5℃とのことで、昨晩の寒さに比べると格段に暖かく感じた。

 先ほど夜のウォーキングを3000歩ほど。空には雲もなく、月ももう沈んでおり、木星も西空にかなり低く見えた。土星と月が接近して見える日であったのに、見損なってしまった。木星から少し天頂付近にあるおうし座を建物の間に見つけようとキョロキョロしながら歩いた。家の傍でようやく見つけてそれとなくホッとした。

 明日は8時半に家を出て、労働組合の会館に9時過ぎにはついていたい。打ち出した資料を人数分コビーしなくてはいけない。退職者会の役員会と幹事会。
 そしていつものように16時過ぎまで会議と作業の連続。さらに18時から他のブロックの新年会におよばれしている。呼ばれているといっても会費は当然払う。本年第1回目の新年会である。
 あといくつ新年会があるやら。最後は2月4日の「新春の集い」である。結局12月の忘年会から2月初めまでの新年会、飲むための理由づけでしかない、というのが妻の棘ある嫌味である。


読了「奇病庭園」(川野芽生)

2024年01月14日 20時55分19秒 | 読書

 昨日「奇病庭園」(川野芽生)を読み終えた。自分よりも何十歳も若い人の小説を読むということは40代以降まったくなかった。なかなかおもしろく読ませてもらった。小説だから「気になった個所の引用」というよりは、「気に入った表現」ということでいくつか引用してみる。

言葉とはもっと深く惜しまれて出て来るもの、苔を伝って滴り落ちてくる雪解け水のように、きわめて貴重なものとして一滴一滴搾り出すように出てくるもの。そうして、与えられた痛みの意味も理解しなかった。」(翼について)
 言葉に対する作者の繊細ながら独自の感覚が滲み出ている。

特別に誂えられた轡と手綱、鞍と鐙で締めあげられ、笞で駆り立てられて、彼は〈本の虫〉を背負って走った。彼の岩乗な体躯は、荒くれ者の〈本の虫〉の乗馬に向いていた。道具として隷従する不自由と、全力を解き放って走る自由、あるいは自由の不安と、服従の愉悦が、彼のうちで手を取り合った。」(蹄について)
 政治的に言ってしまえば、支配されることへの安住、奴隷の言いわけ、となるが国家や集団の中に自己を投じて「自由」であるということの幻想に踏み込んで叙述しようとする意欲は空回りはしていない、と感じた。

思念と詞とを乳として彼は育った。・・おのれのものと他者のものとの区別のないやや焼きが渡ってった。・・・・防波堤に押し寄せては追い返されていく波のように、少年の内なることばは決して岸を侵さなかった。ことばが胸に開いたその瞬間に相手に伝わらないことが、彼には理解できなかった。かれには目の前によぎっていく月白の蝶のように、野を埋め尽くす紅い雛罌粟のようにはっきりと見えているのに、他の誰にもそれは見えないらしかった。」(金のペン先)
 「言葉」が「詞」「ことば」になった理由はわからないが、内なることばへの馴致と、発せられる言葉に対する違和感、これは是非とも今後もこだわって欲しい。

誰か一人だけ選んで命を取っていいといわれたら、迷わずあの人を殺すわ。そうしたらようやく、深く眠れるような気がするの。・・・・だれのことも憎んだことがない者は、だれのことも愛していないのですって。あたしはすべてを愛していたけれど、憎んだことはなかった。」(翼についてⅡ)
 ちょっと若い人向けのアニメの世界なのか、と思わせながら、時代に即した「教団」という集団の内と外の論理に踏み込もうとしていることを感じる。成功しているか否か、もう少し次回作以降での展開に期待したい。

触角は目や耳よりもはるかに多量の、そして微細な情報をその持ち主に伝達した。触覚で花に触れれば、花の柔らかさや色彩、味や香りが、くらくらするほど強烈に感じられる。石に触れれば、石の冷たい沈黙が痛いほどわかる。他人に触れれば、相手のもの思いやささやかな不調から、来歴や死期まであらかたわかってしまう。触角を何にも触れさせるまいとしても、風が運んでくる目に見えぬ微細な物質を、触角は捉えてしまう。こうしてかれらは、春の倦怠を、夏の空無を、秋の寂寞を、冬の憔悴を知った。萌え出づる前の若葉が木の芽の中に身を潜めながら呼び声を待つときの震えを知らされた。降り出す前の、まだ天の奥深くにある雪の気配に、樹々がそっと溶け出すのを覚えた。遠い雨の気配に紛れて、だれかが地面に落とす涙を感じた。深い沼のほとりで、だれかが沓を脱ぎ捨てて自分ひとりのためだけに歌う歌を聞いた。夜の澱を搔き乱す迷い蛾の羽ばたきを、明朝屠られる仔豚の深い眠りを、すべてに倦み疲れた少女が夜ごとはためかせる非在の翼を、目の見えぬ少年の唇に走るおののきを-世界へ差し伸べられた感覚器官に刃を挿し込むように、知らされた。」(触覚について)
 長い引用になったが、いくら精緻に自然描写を繰り返しても、もどかしく捉えられない「感覚」。何とか獲得したい表現との格闘が見えていたので、長々と引用してみた。
 私はこのような表現の繰り返し、畳みかけるような例示による表現は、万葉の時代からの日本語の特徴ではないかと思っている。作者が短歌から小説世界に入って来た特性を垣間見た気がしている。

 作者は、32歳という。17日に発表される芥川賞候補で今年初めて「Blue」という作品がノミネートされた。他の候補も若いが、すでに複数回ノミネートされたことがあるらしい。
 17日の結果に注目したい。
 


本日から「近代美学入門」(井奥洋子)

2024年01月14日 19時21分23秒 | 読書

 本日から読み始めた本は、「近代美学入門」(井奥陽子、ちくま新書)。
 実は昨年末に購入して以降、「近代美術入門」という題の本とばかり思いこんでいた。本日読み始めて「はじめに」の冒頭から、慌てた。
 「本書は美学についての本である。美学とは、美や芸術や感性についての哲学です。哲学ですから、抽象的な話をします。」という出だしを読んで、ようやく「美学入門」であることに気がついた次第。著者には申し訳ない。
 そういえば大学の一般教養で「美学入門」という講座があったような気もしている。受講しなかったように思う。私としては特段「抽象的な話」に顔を背けるつもりは毛頭ないし、否、かえってそのほうがありがたいと思う。楽しみたいと思っている。
 ただし、「日本という文化圏」と「西洋」との比較にスペースはとっているものの、そこには「中国文化圏」「東洋」という概念が無いことがとても気になる。そこはちょっと危うさを感じた。そのことを留保しながら読み進めたい。