Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

夜のウォーキング再開

2024年01月22日 22時34分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

   

 夜のウォーキングを3日ぶりに2000歩ほど行った。歩数は少なかったが、息が上がる程度に早めに歩いた。これで本日の歩行は8200歩ほど。2日間ウォーキングを自粛したので、体がウズウズしていた。気分よく歩けた。
 21時過ぎの外の気温は11.7℃もあり、夕方よりも少し高くなっていた。湿度も82%越え。路面には雨が降った後があり、ちょっと不気味な気象である。空は厚い雲が覆っていた。昼間よりも雲の厚みがあった。

 午前中に受けた視野検査、視野の欠損は拡大しておらず、現状維持。一応緑内障の指摘を受けてから15年以上経つが、この間、視野は狭くなっていないと言われ続けており、ホッとしている。

 政治家が「秘書がやっていたので気がつかなかった」「隠す意図は無かった」というような言いわけが、本日は盛んに報道されている。政治家としてというよりも、社会人としてあまりにお粗末。
 政治家の言いわけを聞くと、もともと社会人としての常識を身につけることができない人、常識・順法精神が欠けた人だったのかと疑ってしまう。彼らに「法の支配」云々というお説教を垂れてほしくないものである。
 緑内障では不本意ながら視野が欠けて、元には戻らないが、彼等はもともと順法精神が欠け、これからも守る気が無いように思える。派閥の解消で終わらせてはならない。要は政治資金の透明性確保と、闇のお金をなくすことである。
 犯罪を犯して「その意図はなかった」で許されるならば、社会は成り立たない。修正すれば許されるのであれば、税の追徴課税などの制度も崩壊する。そもそも辞職を表明した議員は、「飲み食い」と言っているらしいが、政治資金ではなく遊興費ならば、政治資金ではなく所得として、追徴課税の対象ではないのか。その程度のことも知らないのだろうか。
 還流した組織の責任者、もらった者、いづれも法的に潜り抜けても、検察のお目こぼしがあったとしても、道義的には彼らに国会議員としての資格はない。即刻辞職してもらいたいものである。
 


「Blue」(川野芽生)

2024年01月22日 21時10分44秒 | 読書

 昨晩の天気予報よりは2℃ほど気温は高い14℃になった。この時期2℃の差は体感としてとても大きい。特に屋内など空調設備の整っているところにいると暑いくらいに感じる。
 親の通院の付き添いのついでに、私も眼科で視野検査を受けた。帰宅後再度出かけて、喫茶店での読書タイムののち、郵便局で当選していたお年玉切手をもらい、書店をまわってから帰宅。

 さて、次は何を読むか。実はまだ決めていない。
 読みかけの小説がある。芥川賞候補になった「Blue」(川野芽生)である。芥川賞とはならなかったが、なかなかおもしろいと思っている。並行して読むものは、小説ではないものにしたい。


読了「近代美学入門」

2024年01月22日 20時12分58秒 | 読書

   

 「近代美学入門」(井奥陽子、ちくま新書)を読み終えた。18日にも記した通り、私の理解がおよばないのであろうと思うが、感想はいまひとつ。

主観主義的な美の捉え方には共感を覚えます。唯美主義や芸術至上主義も、芸術の可能性を広げ、豊かな作品を馬堕しました。これらを否定したり、中世以前に戻るべきだと主張したりするつもりはありません。公序良俗に反するものであっても、その人が美しい感じるとはどうにも動かしようがありません。主観主義美学に基づいた美の自律性がときに常識か普遍的真理かのように語られることがあります。こうした事態に対しては、近代美学史に携わる身としては危うさを感じる‥。」(第3章)

 是非とも「現代美学」についての言及が欲しい、と感じた部分である。「美」が静的ではなく、鑑賞者にとっても、作者にとっても、動的であり時間軸を外すことはできないということ、「時代」や「社会」の時間軸も挿入しなくてはならないということを前提とした論を求めている私がいることに、ようやく気がついた。
 鑑賞する側だけで言っても、知識の累積、鑑賞した作品の反芻・醸成、年齢による経験の差や時代認識や作品背景の了解度等々、ファクターは無限にある。
 私自身の問題意識に気づかせてもらったことは収穫。