「はじめに」で筆者は、
近世的なものとは、人工するエネルギー、極端な文化的爛熟であるとともに、自然状態への激しい憧憬であった。新たな創造への衝動であるとともに、過去への熱い視線であった。「外部」=「異質なるもの」との出会いであると同時に、すべてのものが「相対的」であることの発見であった。しかしそれはどうやら日本だけの現象だけではなかったようだ。日本の場合、それは中国文化の爛熟の中で起こったものだった。「影響」などという生やさしいものではない。
日本の現象とは、アジアの中国文化圏の現象であり、展開であるのだった。確かに、境界線は十八世紀の前後にあるのだろう。それは地球規模で見出される境界線であるのだろう。それを容易に論理づけることはできないが、その準備のためのいくつかの試みを本書の中で少しでも示すことができれば、それだけで幸運なことだと思っている。
と述べている。
私はこの「日本の現象とは、アジアの中国文化圏の現象であり、展開であるのだった。確かに、境界線は十八世紀の前後にあるのだろう。それは地球規模で見出される境界線であるのだろう」に私は着目している。人類史としての同時代性、人間社会の観念の世界同時性というのは別に近代以降の特質ではないと感じている。たとえば日本の幕末期から明治期、一気にヨーロッパの文化を吸収し尽くしたとも思えるエネルギーは、江戸時代の町民の経済力の蓄積から説明されるが、その経済の蓄積も含め、文化の諸相や政治、社会の構成総体で、人間の観念の力が持つ人類史の持つ「世界性」「世界同時性」、あるいは人間の観念の世界的な水準の「均質性」というものも考慮しなくてはならないのではないか、と私は考えることがある。
狭かったといえ開かれていた交易の窓口の存在も重要であるが、そこから入って来る文化的な刺激を取捨選択する人間の持つ観念の力の必然性というものを抽出することは出来ないか、ということである。
確かに近世から近代に、世界性は時間の尺度が極端に短くなるという極めて大きな変化をもたらしたが、そこへの着目ではなく、時間の尺度の短縮化を取り除いた時に、何が残るのか、というところに興味がある。
そんなことを刺激された「はじめに」であった。
本書では、平賀源内というどこか悪魔的な、ひょっとしたら大言壮語、夢想家、ひょっとしたら詐欺師的な人物像をとりあげ、同時代の彼と接触のあった人間を取り上げ、江戸時代というものの特質を浮かび上がらせてゆく。
また俳句や狂歌の「連」とうものが、俳句に限らず江戸のネットワークの特質であったことなども明かしている。さらに「水滸伝」の中国の白話体がどのように受容されたか、なのど論から中国の物語と日本の物語の特質の差に触れ「日本の物語には、歴史の時間に綱かっていこうとする欲望がない」との結論は魅力的である。また論は「曽我蕭白」論にまで発展する。
私が白眉と思ったのは、当時の「世界地図」による江戸の人々の世界像と世界認識への言及である。マテオ・リッチの「坤輿万国全図」、「和漢三才図絵」の引用などは魅力的である。ここは再度読みなおしてみたい。
後半になると作者は
近世とは、地球的規模の流動が怒りながらも、世界はまだ均質化していなかった時代のことである。異質なものが突然出会い、激しく文化的衝突が起こりながら、混成的な文化がさまざま地域で出現していた。きんせいとはそのような地球的規模の移動と、文化の交錯が可能になった時代である。その期間はヨーロッパ、中国、その他の国々で多少異なるだろうが、おおまかに言えば、世界の均質化、高度な秩序と制御などの、近代の諸特徴が出そろう十九世紀以前の時代であり、流動と移動が実現された十六世紀以降の時代、と考えていいだろう。
としるして、私の問題意識とはズレガ出てくるが、それは致し方ない。
問題は江戸という日本の近世といわれる時代の特質をどのように把握するかである。この抽出した特質で、ヨーロッパや中国などとの差だけに注目するのか、共通基盤を探ろうとするのか、にかかっている。
作者は西洋の世界認識として上から下へのヒエラルキーによる分類によって空間的・地縁的階層序列であると捉える。ひれに比して日本は「空間・時間の羅列」と捉える。それは私は仏教的な世界の均質的な無限の広がりという把握の延長に位置すると思っている。それを井原西鶴や、平賀源内と同時代の上田秋成を引用しながら論じている。特に十八世紀の江戸時代を代表する両極として平賀源内と上田秋成を比較している。
結語的な部分で私は、今後もこの筆者の道行に引き続き着目してみたいとあらためて思った。
近世に共通の問題もある。たとえは相対化・俳諧化の方法や列挙の方法化などである。これらは近世を通して問題となる。
こうして、対立的なものを複眼でとらえること、短い期間の問題と長い期間の問題を同時にみること、地球的な規模でそれらの問題を照らし合わせてみること、そしてヨーロッパと日本を単線で結ぶのではなく、中国、中国文化圏、東南アジア、あるいは仏教文化圏さえもその視野に入れて、実際の錯綜した文化的・技術的・商業的関係を追ってみること。最低限これらのことをやらなくては、共時的な精神史は見えてこない。
しかし作者の論はそれこそ江戸時代の列島を縦横に駈け廻る。それこそ「空間・時間の羅列、列挙」そのもののように網羅的である。なかなか刺激的であると同時に、消化不良にもなる。丹念に読むのには時間がかかる。