Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「現代の眼」#620

2016年11月01日 23時21分01秒 | 読書
 東京国立近代美術館ニュース「現代の眼」#620が到着して、本日目をとおした。企画展の「トーマス・ルフ展」の解説記事2本が冒頭に掲載されている。
 まだ見ていない企画展であるが、どうも私にはよく理解できなかった。実際に見ていないから読解できなかったのならば見に行くべきなのかもしれないが、11月13日までの会期のことを考えると、訪れるのは無理そうである。
 この「現代の眼」#620の記事では、染織家の草間喆雄氏による「糸に魅せられて」の文章に惹かれたし、写真として掲載された作品にも興味を惹かれた。
 しかし最後に「技法によって新しく生み出される「形態」と、色彩によって醸し出される「雰囲気」が私の作品の最も重要な構成要素です。糸は染めることにより、表面だけではなく、芯まで浸み込み、その色は他のどのメディアにもない「鮮やかさ」、「艶やかさ」、「強さ」を持っていると思っています」と記されている。
 私はここで「強さ」という言葉に引っ掛った。「強さ」ということば、どのようにイメージで使用されているのか分からないのがもどかしいが、「したたかさ」のようなイメージなのだろうか。



 「新しいコレクション」では、日本画家で未来派との深いかかわりのあったという尾竹竹坡(1878-1936)の「銀河宇宙」「流星」(共に1920)が紹介されていた。このほかにも同一作家の5点が収蔵されたとのこと。初めてその名を聞く画家と作品であるが、じっくりと見てみたいと思った。
 解説記事の中で主任研究員の鶴見香織氏が「流星」は「天界にある女性が人間界にある男性の引力に惹きつけられた堕落する情態」とのこと。さらに「私たちはようやく、大正期新興美術運動の一角で竹坡がなにを実践していたのか、検討できる地点に立った」と書いてある。
 尾竹竹坡という画家は、題材の新規さの追及に終始したのか、新しい潮流との接触でどのような表現意識を刺激されたのか、どのような思想を獲得したのか、私には荷は重すぎるがそれでも気になった。


講座「奇想の天才画家たち」(2回目)

2016年11月01日 18時45分10秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日の講座は「奇想の天才画家たち~若冲・蕭白・国芳~」の第2回目。曽我蕭白を取り上げた講座。考えがまとまらないままに以下、思いつくまま記載してみる。
 私は曽我蕭白の作品は「雲竜図襖絵」を除いてどうも苦手、惹かれるものがない。あの奇怪な仙人の顔に拒絶反応を示してしまう。
 本日の講座では、20代から32、33歳ころの「久米仙人図屏風」、「寒山拾得図屏風」、30代半ばの「雲竜図襖絵」、「群仙図屏風」、「鉄拐仙人図」、「飲中八仙図屏風」、30代後半の「虎図」、「月夜山水図屏風」、「石橋図」などを紹介してもらった。
 やはり私には「雲竜図襖絵」だけが飛びぬけて迫力あるものとして受け止められた。龍そのものが奇怪なものであるが、それまでの龍のイメージの上に立って、画面からはみ出さんばかりの極端な構図上の奇矯さで描いている。龍の顔そのものに奇怪さを求めていない。そこが私は気に入っている。これが蕭白流の顔の奇抜さで勝負されたら私はきっと気に入らなかったかと思う。
 同時に田中裕子氏の「江戸の想像力」(ちくま学芸文庫)、182頁以降)で蕭白の群仙図屏風を取り上げているのを思い出させてくれた講義であった。
 「「群仙図屏風」は日本の古典ではなく、中国古代世界の、近世への再登場である。しかしそれは穏やかな「理想」としてまとめられた宗教的世界ではなく、現生の生活上肉体上の多様さとその矛盾とを、群仙図の古典的な型の枠の中にどっぷりと流し込んでしまったものであった。これが古典世界の近世的表現であり、日本の金星を透って表れた中国古代であったのだ。そしてその時日本の絵師が思い描いた中国とは、僧房の表現形式で見た中国ではなく、劇や語りや怪異小説の中で生きた、近世都市民衆の中国であった。中国近世の表現の中には、生々しい生命観と、民衆的な他界観が満ちていたのである。」
と記されている。
 なかなかわかりにくい文章で、ひょっとしたら著者自身がまだまだ咀嚼しきれていないような感じもする。私なりの理解では、中国の古典的な文語世界の漢文になれた文人には明末・清初の中国の白話文学がそのままではり解されなかったが、次第にその逞しい中国の庶民の文学世界が水滸伝などをとおして理解されるようになった時の時間軸のねじれがあった。それが中国の古典世界の奇々怪々の世界として翻案されて江戸時代の絵画世界、文学世界に現われ方のひとつが蕭白の作品世界であり、国芳などの世界に繋がる、という風に私は理解してみた。
 ここら辺は多分誤解も間違いもあると思われるので、この「江戸の想像力」をもう一度丹念に理解しなくてはいけないと思うが、取りあえず今そのように理解したということにしておきたい。
 そんなことを考えながら、蕭白の奇怪な作品の根拠を考えると、江戸時代の町民文化のどろどろとしたエネルギーと、中国の近世につながる庶民文化のエネルギーの共通性と独自性にたどり着くのかもしれない。
 若冲と同世代の蕭白、ともに奇想という枠の中におさめてしまうのではなく、東アジアの文化的共通性を土台に考えることの必要性などをふと思いついた90分であった。
 作品を見る観点の違い、視野の広さが作品の理解に関係するようだ。わたしなどのように自分の感覚だけで作品を語る時の陥穽を思い知らされた。

「図書11月号」(岩波書店) ‥追加

2016年11月01日 11時16分12秒 | 読書
 巻頭のまんが家の佐藤正明氏は「現代では‥政治まんがにも目が向けられ、というか監視されているような気がする。その身上である批判や揶揄は、発火、炎上しやすい。政治家の方からのクレームも耳に入るようになってきた」。政治家の劣化はまんが製作者にまで及んでいるようだ。

 三浦佳世氏の「月を愛でる」(美術館散歩11)では次のような指摘がある。
「科学者の指摘によりも早く‥酒井抱一の「秋の七草図」では‥月の中心と月から離れた領域の明るさは同一で、月の輪郭付近の暗く見える部分を隠すと明るさは変わらないことがわかる。この手法だと、月の白さも、月明かりで明るく照らし出される草木の微妙な色合いも、同時に描くことが可能になる。」

・「人間の存在」(イリナ・グリゴレ)
 「ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」を最後まで書ききれなかったことが残念だ。社会主義でもなく、資本主義でもない世界があるとすれば、そこはどんな世界だろう。人の身体が商品にならない日がきっとやってくる。身体は社会的な支配装置から出ることができるのか、といまだに問い続ける。あの暗い団地の廊下で、バレオの夢は完全に失われた。この身体はずっと踊りを探し続けて気がする。シュルレアリスムはまだ始まったばかりだと感じることがある。」