「なみだふるはな」(石牟礼道子・藤原新也、河出文庫)を三分の二ほど読み終わった。特に急ぐこともなく、それなりにじっくりと楽しんで読んでいる。
政治的な文章やアピールのような文章とは違い、言葉の微妙なニュアンスの変化や流れの起伏が読んでいて楽しい。3日間にわたる対談。話は1950年代の水俣の人々と、2011年の福島の原発事故に見舞われた人々の営みが同質のようで異質な、異質なようで同質なねっとりとした時空を行き来する。私の生まれた頃と還暦の頃が飛びかうのである。
自分の物心ついたころの記憶に触れて私の心が共鳴して響くと、そこに立ちどまってしまうこともしばしば。読書の楽しみを味わっている。
詠み終わるのが惜しいと思う時間も多々ある。対談というよりも石牟礼道子の文章世界を楽しんでいるみたいである。
ゴヤが最晩年の1824年から26年までフランスのボルドーに亡命し、「ボルドー素描帖」を制作。
2本の杖でようやく歩いているような白髪の老人の像。自画像なのかはっきりしないが、ゴヤ自身を投影していることは間違いがないようだ。理想像というよりも「それでもわしは学ぶぞ」という「執念」を具現化した像であろう。
4月12日にも記載したけれど、葛飾北斎の臨終の言葉といわれる「天が私の命をあと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう」を思い出した。
このような執念、我執は私は否定できない。こうでありたいと思う気持ちと、そこまでは、と思う気持ち、どちらもある。揺れ動いている。気力がどこまで続くのか、自分では何もわからない。
朝になって目が覚めたら、左目の瞼が閉じてなかなか開かなかった。力を入れて瞼をこじ開けるようにして開けた。窓からの朝日が眩しかったが、左目の目頭に圧迫感があった。
鏡で見ると少しだが赤く腫れていた。痛いのは目頭のあたりの下側、痛みはないが腫れているのは上側。いわゆる「モノモライ」(麦粒腫(ばくりゅうしゅ))と言われているものではないか、ということで、白内障の手術をした時にもらった感染症予防の点眼薬をさしている。
これで様子を見て治らなかったら、眼科のお世話になるしかない。瞼が腫れることはもう何十年も起きていない。
両足首の腫れは少し改善したように思える。足の甲から脹脛の最下部にかけては、青っぽい静脈も見えるようになり、少しだけは改善したような気がする。しかし脹脛の最下部はまだ腫れており、靴下の痕がくっきりと残る。
買い物の荷物運びは、ワイン2本と手洗い用の石鹸液2袋、野菜ジュース1本をリュックに入れ、40分ほど歩いて帰宅。妻は購入した食材を両手に抱えていた。
陽射しが明るく、帰ってくるまでは風もほとんどなくて気持ちのいい午後であった。
夜はゴヤの作品を収めた「もっと知りたいゴヤ」を捲っていた。「アベノマスク」のあまりの馬鹿馬鹿しさ、おカネをどぶに捨てるような施策にイライラして体に良くないとおもい、画集をひらいたのだが、ゴヤではさらに今の政治に対してイライラが募ってしまった。
いつの時代でも、人の上に立ってはいけない人が政治の頂点を極めてしまえことがある。そしてその悲劇を国民が穿き受けさせられる、ということが繰り返される。
日本も現在はそんな時代にいる、と断言できるのではないか。
ただし、あまり政治的な思い入れだけで作品を見てしまうと、表面だけをなぞるだけになってしまうという自戒は手放したくはない。
以下24日午後の毎日新聞の配信である。
★アベノマスク回収で配布遅れ 菅官房長官、中止など「見直し考えず」
菅義偉官房長官は24日の記者会見で、新型コロナウイルスの感染防止策として政府が配る布マスクに汚れがあり、納入した2社が未配布分を回収すると発表したことを受けて、配布日程が予定より遅れると明らかにした。配布中止などの計画見直しは「考えていない」と否定した。
未配布分の回収を発表したのは、興和(名古屋市)と伊藤忠商事。政府に世帯向けの布マスクを納入しているのは計3社で、残りの1社分から不良品は確認されていない。
菅氏は布マスク配布について「マスクの総量が不足する中、国民の不安を解消する政策目的で必要な対応であり、代替できる手段がない」と説明。世帯向けの配布について「メーカーによる検品に加え、納入された商品を確認した上で配布している」と述べた。
政府は3月以降、高齢者施設や小中高校の児童生徒、妊婦らに布マスクを配り、4月17日から1世帯に2枚の配布を始めた。しかし、妊婦向けで数千枚の不良品があったほか、世帯向けでも配布前の確認作業でカビの付着などが見つかった。政府関係者によると、確認された不良品はいずれも海外から輸入されたものだという。5月中に全国への配達完了を目指していた。
私は読んですぐにおかしいと感じたことがある。
それは「どうして既配布分の回収をしないのか?」ということである。記者もどうして記者会見の場で質問しないのだろうか。
ガーゼマスクとはいえ「衛生用品」である。人の口元と鼻をおおうものである。目のすぐ傍に位置するものである。不良品が入っていたらすでに発売しているものでも回収の呼びかけをするべきものである。「配布したものは回収しない」ということを認めてしまっていいのか。
「メーカーによる検品に加え、納入された商品を確認」とはどういう水準の検品・確認なのか、これもはっきりしない。まさか目視だけということはあるまいと思うが、はっきり言ってとても信用できない。
昨日の打合せでニュースの手直し個所をいくつか指摘された。本文の外にも貼り付けた表の差し替えもあった。A3で4頁の点検はなかなか完璧にはいかない。昨日原稿を打ち出して持参してよかった。
午前中はこの原稿の手直しを仕上げて、印刷所に送信が完了。
友人がドイツのメルケル首相の新型コロナウイルスでの演説の訳文を送ってくれた。我が国の首相とは格が違い過ぎる。あのマスクも回収らしい。愚策どころか、被害を発生させないか。生産ラインそのものが不衛生である可能性が高いはずだ。見た目に異常がなくとも危険ではないのか。他に寄付するということをされている方もいるが、却って不衛生を拡散してしまわないか。
不衛生な製品を大事にならないと回収できない政府を抱えていては、私達の健康などとてもではないが維持できないし、健康を政府に預ける気にはならない。
天気が悪くなる前にこれより買い物に行くとのこと。荷物運びである。本日は少し余計に買出しとのこと。
折角なので、松本竣介の作品から1940年代に青を基調とした風景がから、人物の典型が印象的な作品をいくつか。
まずは1942年6月の「風景」。デッサンでは「ゴミ捨て場付近」となっている。リヤカーと人と犬が印象的である。デッサンでは犬はいないが、油彩画では犬が書き込まれた。「画家の像」「立てる像」の強い意志を示す人物の後ろ姿とは思えない。都会で疲れた俯き加減の男の像である。
次が1943年の「並木道」。ルソー風の作品と言われる。都会の憂愁と不安が全体に漂っていると私は感じている。この作品、日本画家の伊藤深水が自由美術展で感銘を受けて生涯手元に置いていたという。
そして1947年の「ニコライ堂付近」。人物が点景として描かれた最後の作品と思われる。戦前・戦中の青い絵具から「Y市の橋」と同じく茶褐色の絵具へと変わり、そして人物像もどことなく落ち着かない場所に据えられている。
この人物が描かれている戦前・戦中の作品に出会うと私はホッとする。特にデッサンではこの人物が鮮明に描かれている。興味は尽きない。
16時半くらいまで外呑みをしてしまった。店を出てからいたく反省しても‥。2000円の散財。
呑んでから、有隣堂の伊勢佐木町本店に行ってみた。店内はガラガラ、自粛中は本がかなり売れている、という情報もあったが、本当かなと思ってしまった。もっとも伊勢佐木町まで本を買いに行くよりも、住んでいる地域、住宅地に近い駅の近くの書店のほうを利用するのかもしれない。
30分ほど店にいたけれど、酔いがまわってきたので、何を見て回ったか、恥ずかしながら覚えていない。
書店に行く途中から雨が降り始め、家に着くまでも時々パラパラと降ってきた。今は晴れている。気温も低くなってきた。
暖冬の次は冷夏になるのだろうか。
足のむくみはまだひかない。昨日から服用している利尿剤、それほど尿意は感じないが、効果はまだこれから、ということにしよう。
本日はこれから組合の会館に「出勤」し、3~5名で打合せ。会議の頻度も規模も縮小している。しかし「テレワーク」だけではうまくまわらない。
私はほとんど電車・バスは利用せず、歩いてしまう。疲れたときも交通機関の利用は必要最小限である。
本日は伊勢佐木町の有隣堂の本店に顔を出してみたい。混雑していたら入らないが、新刊の状況を見てみたい。
松本竣介の「Y市の橋」を私は興味深く見た。たまたま私がこの絵の横浜駅北側にある場所をよく訪れる、というだけでなく、たくさんのデッサンや習作があり、作者のこだわりも見えて来るからである。見えている橋は月見橋。もうひとつ下流の金港橋から西口方面を見ている。今の横浜駅東口の北改札口の地上出口付近である。
跨線橋は現在もあるが、再開発で現在は通行止め。将来的には撤去されることになっているらしい。東西を結ぶ広い地下道が出来ており、利用価値はほぼ無くなっている。実際の形とは違っている。
今回6点を選んで並べてみた。最初の作品は1942年の油彩画。次が1943年の油彩画。これがもっともポピュラーである。色彩的に優れていると思う。3番目は1944年2月の作品。4番目のデッサンと思われる。人物は少し違っている。
4番目は1944年の油彩画。コントラストが一番明瞭で色彩も構図もシンプル。5番目は空襲で月見橋が破壊された直後のデッサンと思われる。6番目は敗戦後の1946年の作。一番現実の風景に近い作品であるようだ。
はじめの作品の跨線橋の上部に細い矩形の枠が描かれている。これは跨線橋の上に設けられた欄干とも違い、四角い枠らしいが、屋根があるわけでもなく、よくわからない構造物である。画家はこの跨線橋の太い鉄骨と細い枠、月見橋の橋脚と親柱とそれに続く運河の護岸にずいぶんこだわっている。色彩は抑えられ、橋と護岸の白っぽい色と跨線橋の鉄の黒の対比を強調している。右側の建物のボリュームは小さい。橋とのバランスを重視しているようで、跨線橋は相対的に大きい。
二番目の作品では一転して青い色彩で覆われ、右側の建物のボリュームが極端に大きくなっている。跨線橋の鉄枠が太くなり、建物のボリュームと辛うじて均衡している。さらに跨線橋の上部の細い鉄の枠はすっきりとまとめられている。私はこのすっきりした構図が気に入っている。実際の作品ではもう少し青い色は透明で明るかったように記憶しているが、記憶に自信はない。1940年代初めの都会風景の極めて明るい青よりはくすんでいるのは、空襲などの戦争後半の重苦しい時代を反映してのことだろうか。
三番目のデッサンでは再び右側の建物が小さくなり、跨線橋の上の細い枠も再度細かく描かれている。しかし随分構成的に変化している。
四番目の作品は三番目のデッサンに基づいているが、着色によって手前の月見橋が前面に大きく張り出してきた。この作品はモノクロのように鮮明であるが、中央の大きな枠が尖っておらず、上辺へ向かうベクトルがなく、空が散漫で広すぎる。二番目の作品のように右側の建物の尖った煙突の方が効果的である。
五番目、橋とその周囲が爆撃で破壊されたことが起因しているのか、現実の風景の構図的な再構成を画家は放棄している、と思う。リアルに風景をデッサンしている。他のデッサンを見ると進駐軍のものと思われるジープが描かれたりしている。
構図的な再構成を放棄しているのは、1945年8月15日というターニングポイントでの従来の価値の崩壊、いまだに不明確な新しい価値の出現を前にした、画家の戸惑いの反映なのだろうか。少なくとも従来の手法・技法・観察の仕方の一時停止状態があったのではないか。リベラルで柔軟な思考の松本竣介であるが、空襲と敗戦という、モノと精神の両方の破壊を前にして、「観察」に徹したかのようである。
そのことは六番目の廃墟を画家の心象風景と重ねて現実的に描いた作品に繋がっていないか。ただし右側の煙突らしい尖った構造物のボリュームを大きくすることで、右側に頂点のある三角形の構図が構成的な指向へのこだわりを微かに感じる。
私は現実の風景を構図的にさまざま変容し、色彩とボリュームの均衡を追求する営為が、一時的な崩壊したように思える。それまでの松本竣介作品とはちょっと違う面が、この1946年の敗戦直後に表れたのではないかと思っている。1947年までかかって描かれた東京の焼け跡を描いた諸作品へと繋がっていく。しかし画家の新しい試みへの再出発は早い。
風景画から、対象を大きく中央に描く茶褐色を中心とした作品群がすぐに表れてくる。そして1948年6月、突如としてその人生が終焉を迎えてしまう。
なお、2、3、4番目の作品には黒い人が点景として描かれている。戦前の作品にもよく登場する人影である。私はこの描かれた人は多くの人と同様に画家の分身とみている。最後の作品に描かれていないのも、新しい作品への模索の一環なのだろうか。この後、1947年の「ニコライ堂付近」「塔のある風景」を除いてこの人物は現れなくなる。
私はこれまで戦前の作品ばかりに惹かれていた。今回敗戦後の松本竣介を主に描いた「青い絵具の匂い」(中野淳)に触発されて、戦後の作品をもう一度自分なりに見直してみたい。
午後から妻は自転車でいつもの買い物に自転車で出かけた。買いだめをしたくない妻は一日おきに、空いているスーパーを探して買い物に行く。取り残された私は16時近くに近くの美味しいサイフォンのコーヒーを飲ませてくれる喫茶店に行ってみた。
入った時は誰も客がいなくてビックリ。私が入ってから立て続けに3組ほど来店。人数としてはいつもの4割程度である。二人おきに座ってのんびりできた。久しぶりにマンデリンを注文。味の違いが判るほどは通ではないが、それでもじっくりと味わったつもり。
「通」とか「こだわり」とかいろいろなことばを聞くが、「そのつもり」という方が多いのではないか、と「通ではない」私は勝手に思っている。
かなり遠回りをして、約1万歩歩いて帰宅。途中で雨がポツポツと降り始めた。さいわいに傘をさすほどの雨にはならず、助かった。雨が降りそうな天気でもあり、広い講演も区役所の周囲も人通りは少なかった。
帰宅後は松本竣介の図録を昨晩に続いて楽しんだ。
昼食前に、印刷所に退職者会ニュースの原稿を送信できた。他の役員の方から間違いなどを数か所指摘してもらって訂正。その訂正をしているうちにさらに3か所ほど読みやすく変更。
明後日に入稿予定だったが、2日も早く入稿できて、ホッとしている。
仕事が一段落すると体の緊張もほぐれる。あとは校正刷りを待つ。連休明けにできれば十分に間に合う。
本日は特に出かける予定がない。
病院を出てから近くの緑道を歩いた。カワヅザクラの葉の中に赤い実をいくつか見つけた。花が散ってから一ヶ月、小さいながらこのように赤くなっていた。ソメイヨシノの実は塾すると黒くなるが、カワヅザクラの実も同様に黒くなるのであろうか。身近に見ているのに、そこまで観察していなかったことにようやく気がついた。
観察ということの難しさについて、現役で仕事をしていた40代前に思い至ったことがあった。今さらながらそれを思い出した。
人間の観察力というのは、かなりいい加減だと言われてきた。小・中・高校とずっと教師に言われてきた。勤めてからも先輩などによく諭された。30代になるまでは、そのようにならないように一生懸命「観察」することで精一杯だった。
しかし30代半ばを過ぎ40代近くになってから、いくらきちんと観察しても、完璧はあり得ない、ということにようやく気がついた。幾度も、必要なたびに虚心ももう一度観察することの方が大切だということに気がついた。視点を変えれば、見えて来るものが違う。こだわるものがわかれば、違う観察ができるのだ、ということがわかった。
それでもそのようなことは、言葉としてはすぐに忘れてしまう。それこそ体で覚えた方がいいのだが、後輩にとっては「体験主義」の変なおっさんに映っていたかもしれない。
仕事を離れて丸8年、ときどき思い出す。それもこんなふうに桜の実を見るようなことで思い出す。それは悪いことではない。美しいものや自然を見て思い出すのであるから。
★活計(たつき)より離れて久し桜の実 菅原 涼
★桜の実岬の端に一人住 須佐薫子
桜の実、実桜は食べるためのサクランボと違って、小さな実である。小さく、頼りなげに風になびき、葉の影に隠れている。そんな風情に自身を重ねることも出来る。老いの実感とも重なり合う句もあった。孤独を実感するときもあるようだ。それでも実はサクランボのように二つがつながっている。
午後にいつもの内科で先週の検査結果を教えてもらった。エックス線で見る限り心臓の異常はなさそうということは先週既に伝えられた。本日は伝えられたのは、
・尿検査では腎臓に異常はない。
・血液検査では、肝臓の異常、炎症を示すCRP値も正常、甲状腺の機能も問題なし、腎機能も正常、糖代謝も正常、心不全のマーカーも問題なし。血栓症のマーカーは市民病院での数値と大差なし。
という説明を受けた。つまり内科的な検査では両足首のむくみの原因はわからないということであった。
一応1週間分の「作用の弱い利尿剤」を処方してくれた。明日の朝以降服用してみて欲しい、とのことであった。
痛みはないので、しばらくの様子見ということに従った。
しかしどこか釈然としないことも確かである。
朝起きたときから腰の痛み。
情けないことに、原因は昨日風呂の壁と床のタイルの目地をブラシで洗ったことと思われる。タイルの表面は石鹸を含ませたスポンジで簡単にきれいになるが、目地はブラシを強くこすらないときれいにならない。数年ぶりに私がしてみようということで、実施した。
しゃがむのは膝が痛くて無理なので、プラスティックの椅子に座りながら床の目地から始めた。床が終わった時点でもう腰が痛くなりかけていた。壁はかなり手抜き。
膝がまげられないだけでこんなにも腰に負担がかかっているかと思うと怖いものである。普段あれだけウォーキングをしても平気なのだが、少しでも中腰や膝を曲げただけですぐに腰痛になってしまう。
さて本日は一昨日にできなかった買い物のお付き合いと、午後はいつもの内科の診断。先週足のむくみがひどいので検査をしてもらった。その結果を聞きに行く。むくみは改善されていない。どういう検査結果になるのやら。妻が見ても腫れがひどいという。痛みはない。