午前中は年末の掃除のお手伝いをごく少しだけ。しゃがめない、腰を曲げた姿勢は数分で悲鳴があがる、埃を吸うとくしゃみが止まらなくなる‥ではまったく役に立たない夫である。妻も腰は丈夫ではないが、私よりはちゃんとしている。ちゃんとしないわけにはいかないのである。
午後になって家には私の居場所がないので、早々に横浜駅まで出かけた。いくつかの所用を済ませ、16時に帰宅。約束した電気工事店が来てくれたが、年内は無理、とのことを言われてしまい、自分で器材を購入して自分で修理することにした。
横浜駅で頼まれた食材の買い物を忘れて帰宅。年末にはまったく役に立たない夫の烙印を以前から押されているが、さらにその烙印を強く押されたようだ。
かといって、掃除の最中では家の中でのんびり読書タイムの確保は無理。出かけても慌ただしく帰宅したので、喫茶店にも入らなかった。
ただし年賀状の半分はとりあえず完成。残り半分は今晩と明日の朝で完成できる見通しとなった。これが本日の成果。
本日は月齢2.95の月、だいぶ高く見える。金星は赤い夕景の中に見えたが、雲はないのに水星は見つけられなかった。
「マルクス・アウレリウス」(岩波新書)の第三章「宮廷と哲学 即位前のマルクス・アウレリウス」、ならびに第四章「パンデミックと戦争の時代 皇帝としてのマルクス・アウレリウス」を読み終わった。
第四章までの記述では第一章を覗いて「自省録」の記述や内容に言及した部分がない。マルクス・アウレリウスの伝記的な記述である。これはちょっと残念な気がしている。第五章、第六章に期待するしかないようだ。
本日の読書タイムは第五章に入ったところで終了。
年賀状の本文と写真などのメインの部分の印刷は終了。本日の作業はここまでとした。明日には年賀状を完成させて投函したい。
明日は所用があって横浜駅まで出かける予定。夕方には電気配線の修理工事をお願いした業者が下見に来ることになった。
冷たい風の中を6000歩ほどゆっくりと散歩。団地の外を大周りで1周半ほど歩いた。まだ急坂の、特に下りは前につんのめりそうになるので怖い。急坂を避けるためにかなりの外回りとなった。
さいわいにも左右の膝ともに痛みは今のところ出ていない。
本日は水星・金星・三日月が日没後にすぐ近くに見えるとのことであったが、南々西の方向に厚く黒い大きな雲の塊が出て、北の方向に流れてきた。ちょうど目当ての星を隠すように。
それでも粘っていると、金星が22日に見たときのように明るく見えた。しかし2~3分でさらに地平線に近い雲に隠れてしまった。
残念ながら水星も三日月も見ることは出来なかった。
写真は本日ではなく、昨年9月の日没の様子から。
親を連れて横浜駅界隈の買い物は無理と思い、別の駅のスーパーへタクシーで往復。その駅の界隈もスーパーも混雑していたがなんとか無事終了。タクシー乗り場で分かれて私はバスにて横浜駅に出てみた。
横浜駅の手前の停留所で下車したとたんに自転車のリンがけたたましくなり、歩道上の私の脇をスピードを落とさずに自転車がすり抜けていった。しかも後ろには3歳ほどの子どもを乗せて父親らしい人間が運転していた。
思わず「危ないじゃないか」とどなったが、そのまま走り去っていった。たまたま接触しなかったから良かったものの、接触していたら双方が怪我をしていたと思う。とりわけ子どもは自転車から放り出されたのではないだろうか。また私が杖を突いていたら杖をひっかけられて、自転車も転倒したと思われる。さらに私が親を連れていたらとんでもないことになっていた。
あの運転はどう考えても父親失格である。カッカしながら横浜駅まで5分ほど歩いた。こういうことに出くわすと、精神的にいらだつ。
横浜駅はとても混雑。周囲の喫茶店はどこも満席なので、有隣堂を覗いただけでバスにて帰宅。横浜駅周辺は道路も渋滞で、バスも立ち往生してしまった。1本見送って座ることが出来たので助かった。
しかし帰りのバスの中でも、自転車の件でイライラしどおしであった。
本日は柚子ジャムづくりの手伝い。レモン絞りで二つに割った柚子を絞って、皮と種と果汁と薄皮に分け、皮を細かく切るところまで手伝った。皮を砂糖を加えて煮る工程以降は妻に任せて、放免。
これより3人で年末の買い物に。本日はどこも混雑しているので避けたほうがいいと思うのだが、致し方ない。
私は図書館にでも行きたいし、昨日から読み始めた本も読み進めたいが、、、ここは素直にお付き合い。
昨晩は、冬至ということで、カボチャと小豆の煮もの。お風呂には柚子をひとつ浮かべた。私は鼻が聞かないので柚子湯に浸かっても、香りはまったくわからない。しかしたったひとつの柚子であっても何となく湯が「柔らかく」なったように思える。木のせいかもしれないが‥。
カボチャは妻が好きでよく食卓にのぼる。ただし私は汁気の多い「べちゃぺちゃ」のカボチャが好きであるが、妻は水分の少ない「ホクホク」したカボチャが好きという。これは柿も同じで私はスプーンで掬えるくらいの柔らかい柿がいいのだが、妻は硬めのものが好みである。
このカボチャと柿の論争は果てしなく続くので、二人とももうその話題はしなくなった。私も出て来たカボチャと柿をパクパク食べるだけにしている。どうも妻は交互に柔らかいものと硬めのものを食卓にのぼらせているようだ。
栗についても同じである。私は栗はお粥に入れるくらいが好みである。水分が多くて味わいがあると思う。しかし妻は炊き込みご飯がいいという。サツマイモは妻は天ぷらにするのも好みらしいが、私はサツマイモはみそ汁に入れて柔らかくしたものが好みである。
同じ食材が好きでも調理の仕方でこんなにも好みが分かれている。それもまた楽しい。
まずは神奈川大学生協では、1割引で、
・「知っておきたい地球科学 ビッグバンから大地変動まで」(鎌田浩毅、岩波新書、税込み871円)
・「マルクス・アウレリウス 『自省録』のローマ帝国」(南川高志、岩波新書、税込み851円)
鎌田浩毅の著書は以前に「地球の歴史」(上・中・下巻、中公新書)を読んで、私なりによく整理されていると感じた。私の頭にもずいぶんと刺激を与えてくれた。今回は復習のつもりで。またビッグバンから解き起こしていることに注目。
マルクス・アウレリウスの「自省録」は岩波文庫版(神谷美恵子訳)を手元に置いており、気が向くとページをめくっている。いい読者ではないのでたかだか年に3~4回程度である。本を開いて、わからないところは飛ばして次のページをめくる。少しでもわかるように入門書として読んでみたい。
そして有隣堂まで出かけたついでに、
・「日経 おとなのOFF 2023年絶対見逃せない美術展」(税込み980円)
こちらは生協ではないので、割引は無し。
表紙は《アモルとプシュケ》(フランソワ・ジェラール 1798)で見た目でちょっとドキッとする。毎年この副題が「絶対見逃せない美術展」である。[絶対」という言葉を使う本やコマーシャルや文章は「絶対信用してはいけない」と自戒しているのだが、他の雑誌の類似の特集号より安価なのでつい購入してしまう。
付録のカレンダーはリビングルーム用になった。同じく長澤芦雪の虎図襖の虎を使ったクリアファイルは友人に渡す予定。
喫茶店では、「マルクス・アウレリウス」の第1章を読んだ。
「皇帝が哲学者を弾圧したこれらの事件の本質は、哲学、とくにストア派の教説にあるのではない‥。紀元1世紀後半のローマ帝国に生じた政治支配層の社会移動、イタリアの地方都市や属州の都市の有力者がローマの中央政界に続々参入して帝国政治に関わるようになった状況がある。‥醸成された謹厳さと保守主義が皇帝政治への批判となって現実に現れた。これが哲学者元老院議員たちの反対運動の本質である、‥。皇帝たちがこの尚古主義的で保守的な反対運動を抑え込む際、似た性格を有し運動に精神的助力をしていた「哲学」に罪が着せられたのである。」
年賀状のデザインと文章はほぼ出来上がった。あとは出すかたに少しずつ文章を変えて印刷すればいいが、この作業で毎年12時間はかかる。
投函は来週、期限ぎりぎりとなってしまうのが例年の習いである。
本日は風が強いが、これより組合の会館へ書類を受け取りに出かける予定。途中で神奈川大学の生協に寄って本の物色をしてから。本日までが年内営業日と聞いている。
乾燥・強風・波浪注意報が出ている。明け方には最大瞬間風速20mを超える西寄りの風の音でいったん目を覚ました。
新潟・東北・北海道では災害レベルの大雪である。新潟の柏崎に住む友人の近くの国道も立ち往生でニュースになったとのこと。さいわい友人には大きな被害はなかったというが、「こんな時に原発事故が起きたら逃げられない」という感想も送ってくれた。車の立ち往生による長期の渋滞はもう恒例行事になってしまった。
年内にこれほどの大雪というのは、私もこれまで聞いたことがない。
15時ころから雲も無くなり始めたものの、なかなかスッキリとは晴れなかった。16時を過ぎてからようやく空が明るくなり、みなとみらいの高層ビル街も見えるようになった。しかしすぐに日没となってしまった。
明日は晴れるがさらに気温が下がり、最高気温の予報が8℃にまで下がった。
現在団地の中では、プラタナスの葉に続いてケヤキの葉もすっかり落ちてしまった。現在はモミジの葉が道路上にびっしりと敷き詰められている。昼までの雨のあと湿った空気が居座り、モミジの落葉が路面に貼りついたままになっている。
17時半ころから突然強い風が吹き始めた。このまま明日まで強風が続くのかと心配したが、いったんはおさまった。19時過ぎには19.3mの最大瞬間風速の南西の風が吹いた。しかし再び強い風が吹き始めている。
明日の予定がまだ決まっていない。
本日読み終わったのは「江戸の絵画 八つの謎」(狩野博幸、ちくま文庫)の最後の第8章「東洲斎写楽 「謎の絵師」という迷妄」、あとがき、文庫版あとがき、解説(辻惟雄)。
第7章の北斎を厚かった章で、富嶽三十六景の版元として有名な永寿堂・西村屋与八が富士講と深くかかわりがあり、富士講の信者をターゲットにした企画だったのではないか、というのはとても魅力的な指摘だと感じた。北斎自身も富士講とかなり密接な関係を保っていたのであろう。
第8章の東洲斎写楽について、写楽が阿波藩のお抱え能役者齋藤十郎兵衛であったという指摘となっている。解説の辻惟雄はこれを「もはや疑うことは困難」と賛意を表している。
なかなか刺激的な表現があり、現代社会批判としては少し論が飛躍しすぎている側面があり、その延長で8人の絵師にまつわる謎解き事態に疑問符が突いてしまうのが惜しいような気がする。
以下の指摘はとても重要な指摘だと思う。「古典作品はそれが生まれた時代以降に流行する思考・思想・思潮を援用してはならないとする立ち位置はね日本金星文学研究を飛躍的に高められた中村幸雄博士が標榜した古典研究の基準といえる。博士はこれを「表現の時代性」という言葉に集約した。」(文庫版あとがき)
この指摘は私の頭の中ではすぐに納得したものの、実際に作品を鑑賞したり、評価するときに厳密にこのことを実践するのは極めて難しいという思いも同時に湧いてきた。何しろヨーロッパと日本の美術の同時代的な切り口すら曖昧な知識しかない私が、作品が作られた時代の社会や思想を想定することはとても無理である。現代の思想の排除すら困難である。
さらにいえば、現代という時代の眼をとおして作品を手がかりに現代を語ることは「鑑賞」「批評」のあり方のひとつでもある。これは批評と、学問的な評価との違いである。私は過去の作品を手がかりに現代の思潮や今の時代の要請や、自分の問題意識に沿って現代を語ることは大切な批評のあり方だと思っている。著者はどうのように思っておられるのだろうか。