研修旅行の可能性を探り南三陸町を訪れた。
テレビ映像は震災当日の悲惨な状況を繰り返し放映することはあるが、
被災地の今を継続的に伝えることはなかなかしない。
当日は港を左手に見ながら石巻から南三陸に向かった。
海岸沿いの道は、平坦ではない。
小高い丘を登っては道が下がるの繰り返しだった。
下がった場所の家はなくなり、
コンクリート製の基礎部分だけが残されていた。
道路から海までの土地には何も残っていない。
広い砂浜が何キロにも渡って続いているようなイメージだ。
南三陸町には何もない。
戦後の焼け野原という言葉があるが、
それがぴったりだ。
木造家屋で残っている家は一軒もない。
病院、消防署、役場の鉄筋コンクリート製の3階建て~4階建ての建物の窓ガラスがなくなり、支柱も曲がってしまっている。
数えられないほどの大きな黒い袋に入った土嚢が何百も港と何もない大地の境界線に置かれてもいた。
大きな水たまりが何カ所もあり、
震災から一年たった今でさえ水が引いていない。
4階建ての鉄骨だけが剥き出しのビルの屋上には、
国産高級乗用車が一台乗ったままだ。
17メートルの高さにもなった津波。
現地の人の話だと、
海面から水が急になくなったそうだ。
沖まで水が引いたとのこと。
その後にやってきた津波。
漁師は海へ船を出して難を逃れた。
チリ地震を経験している先人たちは、
山の中腹にある神社まで逃げたそうだ。
犠牲になった多くの人々は、
家に貴重品を取りに返り車で逃げたが大渋滞に陥り、
車内にいたままで被害にあったそうだ。
見学日当日、多くの人々がボランティアの姿が目に付いた。
G県のバスにはボランティアを示す団体名も記されていた。
その瓦礫処理のボランティアは、
志津川高校そばの老人施設横で瓦礫の分別作業をジンカイ戦術で行っていた。
ボランティアとしてはありがたいが、
現地の方との交流がほとんどなく、
それが問題だとも教えていただいた。
別のボランティア団体はワカメの選別作業をしていた。
震災後の海は良い意味でも変化したそうだ。
漁師の方の話だと汚染物質、化学薬品残留物など、
海底に積もっていた悪いものが一掃されたようだとも話されていた。
結果としてワカメは例年年以上に豊作。
牡蠣も今までに見たことがないような大きな牡蠣に生育しているそうだ。
そのような漁業関係者とコミュニケーションを取りながら現地の人と会話しながら仕事を手伝っていただけるのはありがたいとの話でもあった。
現地に行くこと、
現地の交通機関を使い、
現地で食事をして、
現地のホテルに泊まること、
それは震災後二年目に突入した地域再生のボランティアであることを再確認した次第である。