竹を割ったような経済評論で巨大な権力に挑む、浜矩子(ノリコ)さんの『国民なき経済成長/脱・アホノミクスのすすめ』(角川新書、2015.4)を読む。7年前に書かれたアベノミクス批判ではあるが、その基調は、序章の「そろそろ<その後>を考えよう」だった。安倍元総理が凶弾に倒れた現在の日本の情勢を見抜いていたシャーマンのような明快な言の葉が誌面に吐き出される。
9年前に「今、アベノミクスという妖怪が日本の巷を徘徊している」と述べ、本書で「相変わらず鼻息は荒い。だが、やはりお疲れの色は漂う。…何しろ、常に毒ガスを吐き出し続けていないとことには、根拠なき熱狂は持たない」と、分析する。
そしてその「安倍政権の経済政策は、人間に目が向いていない。」と本質を衝く。アダムスミスを引き合いに出して、人の痛みがわかる「共感性を持ち合わせている人間」であることが経済活動の基盤だとする。それをわれわれはついつい忘れて景気高揚を選挙の指標にしてしまう。
そんな理想的なことより、なにより優先したのは盤石な政権を維持していく装置を構築したこと、それが「アホ」ノミクスの本質でもある。人事・権限の官邸支配は「忖度」を加速させ、文書改ざんしてもなお国民のための政策より政権維持優先が「成果」となる。頼りない野党の未熟さもあって国民はとりあえずの安定を選んでしまう。
さらに、岸信介おじさんから綿々とつながりのある旧統一教会の禁じ手を使って票田を稼ぐ先頭にいたのが右寄りの安倍派だ。その持ちつ持たれつの関係の旨味は、安倍元総理の死という皮肉な結果をもたらした。日本だけがカルト集団を放任したことで、オウム真理教や統一教会の蛮行・謀略を許す結果ともなった。
そんなこんなで、核軍縮・環境政策・エネルギー・女性活躍・幸せ度など日本は世界の新しい潮流についていけない後進国となってしまった。つまり、政策形成能力の劣化が著しい国になってしまったということでもある。
安倍君の「日本を取り戻す」とは、「稼ぐ力」の強化でもあったが、それは、格差をますます産みだし無関心・無理解・無神経を蔓延させる。浜さんは、そうした溝を越えた人間と経済との共感性・双方向性のある社会をめざす。
本書の帯には、「経済成長を求めるほど多くの人が貧しくなる」と浜さんの主張を的確にキャッチしているが、アホノミクス解体「その後」の展望については一般論になってしまい、快刀乱麻な切れ味の割には紙数が足りない気がした。