太平洋戦争を平和裏に終戦へと導いた総理・鈴木貫太郎(1868-1948)の生涯を鮮烈に描いた小説『鈴木貫太郎/昭和天皇から最も信頼された海軍大将』を読む(PHP文庫、2000.3)。日露戦争で海軍軍人として水雷戦法で敵艦を撃沈するなどで大きな戦果を挙げ、海軍大将・連合艦隊司令官などを歴任。その後、昭和天皇の希望で侍従長を経てさらに終戦工作のための総理を拝命。
それをさかのぼるエピソードと言えば、貫太郎が入学した海軍兵学校の出身者は薩摩閥など九州・西日本からの出身者が圧倒していた。その全在校生99人のなかで関東出身者は貫太郎一人だったくらいの偏りだったが、翌年以降関東出身者が増えていく。また、2・26事件では反乱兵士から4発の弾丸を浴び、重体となるが奇蹟的に生き延びる等エピソードに事欠かない。
総理を受けるにあたっての決意表明は鬼気迫るものがある。「今日、私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。」と。
実際、陸軍の一億総玉砕主戦論やクーデターの動きもありそれを止めるためのタイミングに苦慮していく様子が著者によって丹念に描かれていく。精神論ばかりの軍人ではない懐深い貫太郎だからこそ、天皇からの信頼が厚かったのは言うまでもない。ただし、天皇の戦争責任への踏み込みが薄いのが残念。
「戦争に負けるということは、国が滅亡することではない。国民が健在である限り、必ず国家は復興できるのだ。」という貫太郎の信念は、現代に生かされている。昭和20年4月、78歳の高齢で受けた総理就任も、同年8月の玉音放送を受けて内閣総辞職。この短くも「日本のいちばん凝縮した日々」は貫太郎の獅子奮迅の活躍で平和裏に終戦を迎えられた。阿南惟幾(アナミコレチカ)陸相は割腹自決、外相の東郷茂徳はA級戦犯として入獄。
昭和23年、貫太郎は千葉において肝臓がんで亡くなったが、遺灰の中から2・26事件のときに被弾した弾丸が出てきたという。享年81歳だった。貫太郎がいなければ、戦後日本はしばらく内乱状態が続いたに違いない。