田舎生活実践屋開業のいきさつ、リストラ体験記
大学入学が1968年、東大紛争の時で、四国の田舎の高校から東京に上京の田舎者の若造の私には、政治の話も、経済の話も、ピンと来ず、うろうろしているうちに、カトリックから無教会までのクリスチャンの学生の暮らす同志会という小さい学生寮の門をくぐりました。
就職の段になって、2社受けて、北九州のT社という、メーカーに入社しました。
入社5年で結婚、妻が農家の末っ子で、実家の両親は既に亡くなり週末は空家の妻の実家に泊まり、畑で野菜を作って面白がっているうちに、子供も3人授かり、気が付くと既に50歳近く。仕事も自分では、会社の役に立っていると実感、そのうち役員ぐらいにはなるだろうと思っていました。
47歳の時、初めて日本列島から出て、アメリカ出張、アメリカ人も面白いと思っているうちに、52歳で中国に出向となりました。中学生の次男がおり、進学を考えて単身。給料はふんだんにあり、物価は日本の四分の一、高級外車で送り迎えという、様変わりの生活は、面白く、学生時代に日本が高度経済成長で活気に溢れていたのと同じ、高度成長と若々しい北京の中国人の若者達と仕事をしたり、遊んだりの毎日で、中国人はアメリカ人によく似ている、これは5、6年は北京で仕事と決め込んだものです。
赴任して1年、仕事にも慣れてきました。中国の正月の春節直前の1月末、中国の会社も10日間の休みで、一時帰国して、久しぶりに家族に会い、好きな船釣りを思い描いているころ、北京のアパートで何の気なしに、「主よ、私をお守りください」と心の中で、唱えました。
次の日、出勤し、明日一時帰国でウキウキしていると、現地法人の責任者より、ちょっと来て欲しいとのこと。この一年、よくやったと、ねぎらいだろうくらいに思って出向くと、3月末で日本帰国とのこと。面食らったり、ガッカリですごすご九州の我家に。留守を守る妻は拍子抜け、次男は会社をお払い箱かと一言、四国の母は、大事な仕事が日本にあるのだろうとのこと。
九州の本社に出向くと、お前は来年55歳、リストラ対象で、身の振り方を考えるようにとの冷たい一言。
暗い気持ちで我家に戻り、私の寝室に入ると、一冊の本が目にとまる。30年前、友人夫婦からプレゼントされた、内村鑑三の「続一日一生」。もらったものの全く手付かずで、そのまま寝室に飾られていたもの。手にとると、苦難は恩恵、荒野で神の声に耳傾けよ、等々、心に染みる内村の言葉が目に飛び込んでくる。中国で残り3ヶ月の仕事を終え、サーズ騒ぎの4月末の北京に別れを告げ帰国するまで、毎日、1ページずつ、この「一日一生」を読むことになりました。
帰国後のT社では55歳の誕生日まて1年あるものの、まともな仕事もポストもあるわけでもなく、それまで、好意的に仕事に協力してくれていた、同僚も、後輩も、気の毒そうに、係わりを持ちたくないといった表情で、遠めに眺めているだけ。さらしものでした。「続一日一生」を読むのが最大の慰めの一年となりました。合わせて、司馬遷の史記・屈原の伝記、松永安左エ門全集で日々これ好日の随筆を読み直しました。初めて作者の真意が分かった気がしました。
妻にT社での私の立場を概略状況説明すると、2秒ほど考えて、あんたなら会社を辞めるだろう、最後はご飯に塩をかけて食べようとのありがたい一言。
またじっくり考えてみると、身の回りの先輩達は65歳前後で亡くなる方が多い。生きていても健康を害してベットに寝かされておしめ生活。退職金と貯金をかき集めると、10年間、つまり65歳までは好きな釣りやら、畑仕事、山登りをしていても経済的には何の支障もない。10年後、蓄えは0だが、そのころ生きているやら大いに疑問ということで、もし生きていれば、改めて考えたので十分と気づきました。2年前の5月、めでたくリストラとなりました。
それ以来、2年半、釣り人生を決め込んで、北九州で船釣りに興じています。電気工事をしながら毎週小倉の漁港から船釣りに出かける、川端船長とは、意気投合、毎週日曜日、関門海峡に繰り出しています。また、元銀行員のNさんは、クルーザーを玄界灘に出して、アジ・ヒラメを追いかけていますが、こちらもいつでも希望すれば一緒に竿を出してくれます。T社の元同僚達には、漁船とクルーザー各一隻私は手に入れたと煙に巻いています。
また、若い方の就職支援センターを北九州市が始め、相談員をリストラ直後から始めました。若い求職者も私も失業の憂き目にあっているもの同士で、意気投合の日々です。北京でいっしょに仕事をしたり遊んでいた中国の若者達と全く遜色ない、気持ちの純で、若々しい日本の若者と泣き笑いの日々です。就職の斡旋で、地元の小企業経営者と会うことが増えましたが、お互いの心の琴線に触れる会話を毎日のようにさせてもらっています。私の子供達も、頼りない父親を見て、これなら勝てると自信をもったようで、すっかり親離れです。
春節前の北京のアパートで、「主よ、私をお守りください」と何気なく、気持ちとしてはいいかげんに呟いた事が、私の意に反した、北京からの帰国、リストラと続き、つらい、さらし者のような、1年を経て、釣り、畑、山に興じる生活がスタートし、フリーター、ニートと軽蔑される生き生きした若者の仲間に入れてもらい、家族の絆も強めてもらいで、北京でのいいかげんな祈りは、全く私の予想外の形で聞かれたと実感している昨今です。中国では、新年は1月末ですが、私にとっての正月も中国の春節同様、北京帰国を告げられた、1月28日で、「続一日一生」「一日一生」(共に内村鑑三)「眠られぬ夜のために」(ヒルティ)とこの日をスタートに、毎年、この日に本を取り替え毎日1ページ読んでいます。
(下に愛読書の写真 2007/3/3 愛読書)