田舎生活の好きな皆さんお元気ですか。
火曜日の今日は、北九州の若い人の就職支援センターは休んで、竹田農園にバーベキュー。農園の隣に住む、江藤正翁(元南海ホークスのエース)とビール、カッポ酒、日曜日に釣ったアジを堪能しました。
(20年前のベースボールマガジン社の南海ホークス特集と江藤氏)
江藤氏と焚き火と炭火にあたりながら、農園の林でビールを飲んでいると、
「こんなものを知り合いの毎日新聞の記者が送ってくれた」
と1988年に発行された「さらば南海ホークス」という冊子のコピーを見せてくれる。
阪神と南海と二重契約をしたと、1949年のシーズンを江藤翁が棒に振ったことは、時々耳にしていたが、その詳細を軽妙なタッチの文章で紹介したもの。
詳細は末尾に。ワードで4ページと長いが面白い)
(お守り)
記事の中に、1950年、プロ初勝利の際、ユニフォームのポケットに江藤翁がしのばせていたお守りの記事。
一番最初に聞いてのは、このお守りは本当かと聞くと、江藤翁、表情を変えずに、こんがり炭火で焼きあがった鶏の骨付き肉を食べながら、
「本当。当時は、大阪では商売人は、縁起かつぎで、よく持っていた。私もそうですか、では使わせてもらいますと、もらった」と。
(一人の練習)
1949年は、ペナルティで一年間、南海の選手として練習したと記事にあり、どんな練習をしたのか尋ねると、目を丸くしながら、
「一人でした。当時は、プロ野球の二軍はなかった。
また、練習グランドもなく、球団事務所の近くの空き地、これが、周りを空襲で燃えたガレキの山に囲まれていた。
球団職員に一人、昔野球をやっていた人がおり、この人が元キャッチャーで、昼から出かけて投球練習。
そのあと、いっしょに酒を飲んでいた。
社会人野球チームで南海土建というチームがあり、このチームに加わって投げたこともある。
後で、このチームが南海ホークスの二軍になった。」とのこと。
(アジの塩焼き)
昨日の寒さは峠を越し、温かい春の風。話に花が咲き、気がつくと2時間経過。
金串にさして、遠火の炭火で焼いていた、一昨日釣ったアジ、こんがりと、燻製のように。
食べると脂が乗り、合流した妻の卓球仲間のy夫妻も、「これは美味しいと」。
皆さんで記念写真(冒頭の写真)。
↓ベースボールマガジン社特集「さらば南海ホークス」(1988年出版)より
アマの剛腕、江藤獲得へ阪神と火花
ドラフト制下では考えられない自由獲得競争下の激しい選手争奪戦の例
都市対抗野球は、昭和63年から東京ドームを使用しているが、この大会は、昭和30年代から都市対抗とは名ばかりの「企業対抗」になってしまったが、それ以前はクラブ組織のチームが多く、しかもプロに入っても投手なら20勝、打者なら3割代が打てる強打者がずいぶんいた。
23年の都市対抗で優勝投手になった西鉄のアンダーハンド、武末悉昌(大連高商出身)や大洋漁業の本格派右腕投手の江藤正(法大出身)など、プロでもいきなりエースになれる技量を持っていた。
この年の秋、西鉄の武末は阪神と南海から積極的に勧誘されたが、阪神入りを決意して、同球団と契約するため大阪にやってきた。ところが、それから数時間後に南海と契約をかわした。武末の回想によると、こういうことになる。
「私は阪神と契約するつもりで、球団事務所へ行ったんですよ。ところが事務所には女性の事務員しかおらず、話をしてもさっぱり要領を得ないんで、それでナンバの南海に行った」
武末を南海に奪われたと錯覚した阪神監督の若林忠志(法大出身)は、南海監督の山本一人(現姓鶴岡)に激しく抗議した。
「若林さん、武末はウチ。江藤は阪神にしましょうや。こんなことで、ガタガタしてもしょうおまへんし・・・」
山本は若林をなだめる目的もあって、軽い気持ちでいったつもりだったが、若林は、それを真に受けた。
南海は江藤と仮契約をすませていたが、阪神代表の富樫興一は下関まででかけて、
「南海の山本監督が、江藤君をウチに譲ると約束してくれたので、契約をしにきた」
といって契約書を江藤の前に置いた。
江藤は驚いた。
「山本監督がいらないというのなら仕方がありません。阪神にお世話になりますが、その前に山本監督に電話をして・・」
江藤は、山本の了解を取った上で阪神と契約するつもりだった。しかし、富樫に
「私から契約したと伝えておく。だから・・」
とうながされ、江藤は阪神と契約した。だまし討ちである。
翌日、下関から帰ってきた阪神代表の富樫は、新聞記者に大洋漁業の江藤の入団発表をした。これを耳にした南海の山本は怒った。
代表の松浦竹松は、ただちに下関の江藤に電話をかけた。
「江藤、おまえは、えらいことしたぞ。二重契約やないか。ウチはおまえを阪神に渡すという約束をした覚えはない。とにかく、すぐ大阪へ出て来い。汽車に乗る時間がわかったらすぐ電話せえ」
松浦も山本も江藤を、どこかへ隠すつもりだった。
江藤が下関を出発した。彼から電話で大阪駅到着時間を知らせてくると、松浦は球団職員全員を集めて、
「ここにいる者で、どうしても抜けられないものはともかく、その他の者は大阪駅へ行ってくれ。江藤が大阪駅に着いたら、無理矢理でもええからタクシーに乗せて連れて来い。阪神にも、江藤が大阪へくることはわかっているはずや。向うも同じことを考えとるやろ。ええか、だから、そのつもりでやってくれ」
と厳しい口調で指示した。
松浦は、大阪駅頭で南海と阪神による江藤争奪戦が必ず起こると予想していたのだ。
このころ阪神では、こんな作戦がたてられていた。
「もしも南海に江藤をさらわれるようなことになった場合は、江藤がさげてくるであろうカバンをひったくれ。そうすれば、江藤は、カバンを取り返そうと、こっちにくるはずや」
二重契約事件は、身柄争奪戦になってきた。大阪・ミナミの南海とキタの阪神の対決は目前にせまっていた。
ドラフト制の現在ではとうてい考えられない24年早春の出来事である。
大阪駅前の一帯がヤミ市だった24年早春、駅前で南海、阪神と「二重契約」をしていた大洋漁業の江藤正投手をめぐり両球団が江藤の身柄争奪戦を演じた。両球団とも彼をどこかへ隠そうという作戦だった。
下関発の汽車で江藤が大阪駅に着き、改札口を出てくると、南海は総動員した球団職員が江藤を取り囲み、待たせてあったタクシーに押し込もうとした。
後れをとった阪神の球団職員は江藤が下げていた荷物を奪い取った。
「万一、江藤の身柄を確保できなかった場合、荷物を奪え。そうすれば、彼は必ず、荷物をもらいにやってくる。そうすれば、こっちのものだ」
というのが阪神の作戦だったからだ。
荷物を奪われて江藤はあわてたが、南海球団職員は、
「そんなもの、どうにでもなるわ。とにかく球団へ・・・」
とタクシーをナンバに走らせた。
南海監督の山本一人(現姓鶴岡)と代表の松浦竹松は、江藤から阪神と契約させられた事情を聴取したあと、球団職員に金を持たせ大津市内へ隠した。
南海に江藤を奪われた阪神は血眼になって彼を探したが、行く方はつかめなかった。そこで阪神監督の若林忠志と代表の富樫興一は、相談の末に、
「こうなったら、しようがない。ことし一年だけ江藤をウチが使い、来年から南海に渡そう」
という妥協案をつくり、南海に持ち込んだが南海は一蹴した。
南海が先に江藤と契約。阪神は江藤に「南海の山本監督から譲ってもらうことが決まった」とだまして契約したのだから、南海が、江藤は南海の投手と主張するのは当然のことである。
南海はやがて阪神を提訴した。阪神もまた南海を連盟に提訴する。
やがて連盟から裁定が出た。その内容を知った監督の山本は烈火の如く怒った。代表の松浦も同様である。
「江藤は南海ホークスの選手として登録を受理する。ただし、一年間の出場停止とする」
というものだったからだ。
「あれは裏で巨人が動いたとワシは思う。この年の3月、ウチはエースの別所を巨人に分捕られた。このとき連盟は誰が考えても巨人有利の裁定をしているんや。それにまた江藤や。江藤が投げたら武末もいることやし、優勝を狙う巨人からみると、ウチは目の上のコブや。それで、あんなきついことをした」
これは山本がのちに語った話である。
江藤の一年間出場停止処分は、山本一人の構想を潰されて困ったが、それよりも彼はマウンドに立てない江藤がかわいそうでならない。
「あれは、ほんまに悔しいだろう。これからもつらいこともあるやろ。みんなで、江藤を見守ってやらないかん」
山本は選手を集めて、そんなことをいった。
一年間、江藤は中モズで練習を続けた。山本は、時折姿をみせては彼を励ました。
江藤がマウンドにたったのはプロ野球がセ、パ両リーグに分裂した25年。初勝利をあげたのは4月1日、小倉球場で行われた阪急線。8対4の勝利だった。
江藤はユニフォームのポケットに「お守り」をしのばせていた。これは大阪・宗右衛門町の美人芸者の「アンダー・ヘア」だった。
「あれはな。ワシが江藤に何とか勝ってもらおうと、知り合いの芸者に抜いてもろうて江藤にもたせたんや」
山本が教えてくれたエピソードである。
エピローグ(memo)
のどかな時代。
選手の契約、獲得をめぐっての実話は、びっくりするような内容が多い。
しかし、大の男たちが大阪駅のど真ん中で、選手の身柄を奪い合ったのはこの江藤氏しかいない。
いま彼の契約を振り返り、関係者こういっている。
「あれはかつての国鉄ストライキと同じだつた」と。
つまりかつての国鉄ストライキのとき、運転者をめぐり、経営者側と労働者側とが奪い合う。あれを指しているのである。
江藤が26年、24勝をあげてエースにのし上がったあと、鶴岡監督は江藤を連れて、その宗右衛門町の美人を訪れ、「おかけさまで」と礼を言ったという。
大阪駅頭の争奪戦から始って宗右衛門町秘話まで、いまにして思えばのどかな時代だったといえる。
火曜日の今日は、北九州の若い人の就職支援センターは休んで、竹田農園にバーベキュー。農園の隣に住む、江藤正翁(元南海ホークスのエース)とビール、カッポ酒、日曜日に釣ったアジを堪能しました。
(20年前のベースボールマガジン社の南海ホークス特集と江藤氏)
江藤氏と焚き火と炭火にあたりながら、農園の林でビールを飲んでいると、
「こんなものを知り合いの毎日新聞の記者が送ってくれた」
と1988年に発行された「さらば南海ホークス」という冊子のコピーを見せてくれる。
阪神と南海と二重契約をしたと、1949年のシーズンを江藤翁が棒に振ったことは、時々耳にしていたが、その詳細を軽妙なタッチの文章で紹介したもの。
詳細は末尾に。ワードで4ページと長いが面白い)
(お守り)
記事の中に、1950年、プロ初勝利の際、ユニフォームのポケットに江藤翁がしのばせていたお守りの記事。
一番最初に聞いてのは、このお守りは本当かと聞くと、江藤翁、表情を変えずに、こんがり炭火で焼きあがった鶏の骨付き肉を食べながら、
「本当。当時は、大阪では商売人は、縁起かつぎで、よく持っていた。私もそうですか、では使わせてもらいますと、もらった」と。
(一人の練習)
1949年は、ペナルティで一年間、南海の選手として練習したと記事にあり、どんな練習をしたのか尋ねると、目を丸くしながら、
「一人でした。当時は、プロ野球の二軍はなかった。
また、練習グランドもなく、球団事務所の近くの空き地、これが、周りを空襲で燃えたガレキの山に囲まれていた。
球団職員に一人、昔野球をやっていた人がおり、この人が元キャッチャーで、昼から出かけて投球練習。
そのあと、いっしょに酒を飲んでいた。
社会人野球チームで南海土建というチームがあり、このチームに加わって投げたこともある。
後で、このチームが南海ホークスの二軍になった。」とのこと。
(アジの塩焼き)
昨日の寒さは峠を越し、温かい春の風。話に花が咲き、気がつくと2時間経過。
金串にさして、遠火の炭火で焼いていた、一昨日釣ったアジ、こんがりと、燻製のように。
食べると脂が乗り、合流した妻の卓球仲間のy夫妻も、「これは美味しいと」。
皆さんで記念写真(冒頭の写真)。
↓ベースボールマガジン社特集「さらば南海ホークス」(1988年出版)より
アマの剛腕、江藤獲得へ阪神と火花
ドラフト制下では考えられない自由獲得競争下の激しい選手争奪戦の例
都市対抗野球は、昭和63年から東京ドームを使用しているが、この大会は、昭和30年代から都市対抗とは名ばかりの「企業対抗」になってしまったが、それ以前はクラブ組織のチームが多く、しかもプロに入っても投手なら20勝、打者なら3割代が打てる強打者がずいぶんいた。
23年の都市対抗で優勝投手になった西鉄のアンダーハンド、武末悉昌(大連高商出身)や大洋漁業の本格派右腕投手の江藤正(法大出身)など、プロでもいきなりエースになれる技量を持っていた。
この年の秋、西鉄の武末は阪神と南海から積極的に勧誘されたが、阪神入りを決意して、同球団と契約するため大阪にやってきた。ところが、それから数時間後に南海と契約をかわした。武末の回想によると、こういうことになる。
「私は阪神と契約するつもりで、球団事務所へ行ったんですよ。ところが事務所には女性の事務員しかおらず、話をしてもさっぱり要領を得ないんで、それでナンバの南海に行った」
武末を南海に奪われたと錯覚した阪神監督の若林忠志(法大出身)は、南海監督の山本一人(現姓鶴岡)に激しく抗議した。
「若林さん、武末はウチ。江藤は阪神にしましょうや。こんなことで、ガタガタしてもしょうおまへんし・・・」
山本は若林をなだめる目的もあって、軽い気持ちでいったつもりだったが、若林は、それを真に受けた。
南海は江藤と仮契約をすませていたが、阪神代表の富樫興一は下関まででかけて、
「南海の山本監督が、江藤君をウチに譲ると約束してくれたので、契約をしにきた」
といって契約書を江藤の前に置いた。
江藤は驚いた。
「山本監督がいらないというのなら仕方がありません。阪神にお世話になりますが、その前に山本監督に電話をして・・」
江藤は、山本の了解を取った上で阪神と契約するつもりだった。しかし、富樫に
「私から契約したと伝えておく。だから・・」
とうながされ、江藤は阪神と契約した。だまし討ちである。
翌日、下関から帰ってきた阪神代表の富樫は、新聞記者に大洋漁業の江藤の入団発表をした。これを耳にした南海の山本は怒った。
代表の松浦竹松は、ただちに下関の江藤に電話をかけた。
「江藤、おまえは、えらいことしたぞ。二重契約やないか。ウチはおまえを阪神に渡すという約束をした覚えはない。とにかく、すぐ大阪へ出て来い。汽車に乗る時間がわかったらすぐ電話せえ」
松浦も山本も江藤を、どこかへ隠すつもりだった。
江藤が下関を出発した。彼から電話で大阪駅到着時間を知らせてくると、松浦は球団職員全員を集めて、
「ここにいる者で、どうしても抜けられないものはともかく、その他の者は大阪駅へ行ってくれ。江藤が大阪駅に着いたら、無理矢理でもええからタクシーに乗せて連れて来い。阪神にも、江藤が大阪へくることはわかっているはずや。向うも同じことを考えとるやろ。ええか、だから、そのつもりでやってくれ」
と厳しい口調で指示した。
松浦は、大阪駅頭で南海と阪神による江藤争奪戦が必ず起こると予想していたのだ。
このころ阪神では、こんな作戦がたてられていた。
「もしも南海に江藤をさらわれるようなことになった場合は、江藤がさげてくるであろうカバンをひったくれ。そうすれば、江藤は、カバンを取り返そうと、こっちにくるはずや」
二重契約事件は、身柄争奪戦になってきた。大阪・ミナミの南海とキタの阪神の対決は目前にせまっていた。
ドラフト制の現在ではとうてい考えられない24年早春の出来事である。
大阪駅前の一帯がヤミ市だった24年早春、駅前で南海、阪神と「二重契約」をしていた大洋漁業の江藤正投手をめぐり両球団が江藤の身柄争奪戦を演じた。両球団とも彼をどこかへ隠そうという作戦だった。
下関発の汽車で江藤が大阪駅に着き、改札口を出てくると、南海は総動員した球団職員が江藤を取り囲み、待たせてあったタクシーに押し込もうとした。
後れをとった阪神の球団職員は江藤が下げていた荷物を奪い取った。
「万一、江藤の身柄を確保できなかった場合、荷物を奪え。そうすれば、彼は必ず、荷物をもらいにやってくる。そうすれば、こっちのものだ」
というのが阪神の作戦だったからだ。
荷物を奪われて江藤はあわてたが、南海球団職員は、
「そんなもの、どうにでもなるわ。とにかく球団へ・・・」
とタクシーをナンバに走らせた。
南海監督の山本一人(現姓鶴岡)と代表の松浦竹松は、江藤から阪神と契約させられた事情を聴取したあと、球団職員に金を持たせ大津市内へ隠した。
南海に江藤を奪われた阪神は血眼になって彼を探したが、行く方はつかめなかった。そこで阪神監督の若林忠志と代表の富樫興一は、相談の末に、
「こうなったら、しようがない。ことし一年だけ江藤をウチが使い、来年から南海に渡そう」
という妥協案をつくり、南海に持ち込んだが南海は一蹴した。
南海が先に江藤と契約。阪神は江藤に「南海の山本監督から譲ってもらうことが決まった」とだまして契約したのだから、南海が、江藤は南海の投手と主張するのは当然のことである。
南海はやがて阪神を提訴した。阪神もまた南海を連盟に提訴する。
やがて連盟から裁定が出た。その内容を知った監督の山本は烈火の如く怒った。代表の松浦も同様である。
「江藤は南海ホークスの選手として登録を受理する。ただし、一年間の出場停止とする」
というものだったからだ。
「あれは裏で巨人が動いたとワシは思う。この年の3月、ウチはエースの別所を巨人に分捕られた。このとき連盟は誰が考えても巨人有利の裁定をしているんや。それにまた江藤や。江藤が投げたら武末もいることやし、優勝を狙う巨人からみると、ウチは目の上のコブや。それで、あんなきついことをした」
これは山本がのちに語った話である。
江藤の一年間出場停止処分は、山本一人の構想を潰されて困ったが、それよりも彼はマウンドに立てない江藤がかわいそうでならない。
「あれは、ほんまに悔しいだろう。これからもつらいこともあるやろ。みんなで、江藤を見守ってやらないかん」
山本は選手を集めて、そんなことをいった。
一年間、江藤は中モズで練習を続けた。山本は、時折姿をみせては彼を励ました。
江藤がマウンドにたったのはプロ野球がセ、パ両リーグに分裂した25年。初勝利をあげたのは4月1日、小倉球場で行われた阪急線。8対4の勝利だった。
江藤はユニフォームのポケットに「お守り」をしのばせていた。これは大阪・宗右衛門町の美人芸者の「アンダー・ヘア」だった。
「あれはな。ワシが江藤に何とか勝ってもらおうと、知り合いの芸者に抜いてもろうて江藤にもたせたんや」
山本が教えてくれたエピソードである。
エピローグ(memo)
のどかな時代。
選手の契約、獲得をめぐっての実話は、びっくりするような内容が多い。
しかし、大の男たちが大阪駅のど真ん中で、選手の身柄を奪い合ったのはこの江藤氏しかいない。
いま彼の契約を振り返り、関係者こういっている。
「あれはかつての国鉄ストライキと同じだつた」と。
つまりかつての国鉄ストライキのとき、運転者をめぐり、経営者側と労働者側とが奪い合う。あれを指しているのである。
江藤が26年、24勝をあげてエースにのし上がったあと、鶴岡監督は江藤を連れて、その宗右衛門町の美人を訪れ、「おかけさまで」と礼を言ったという。
大阪駅頭の争奪戦から始って宗右衛門町秘話まで、いまにして思えばのどかな時代だったといえる。